10月19日(土):希薄な人たち
商売をされている方ならお分かりいただけると思うのだけど、客というのはとかくわがままを言うものだ。まあ、わがままくらいは許せるが、店に対してけっこうな無理難題をふっかけてくる客もある。昨夜はコンビニのバイトに行っていたのだけど、その手の客と運悪く遭遇してしまった。
あまり客個人のことは書かないでおこう。しかし、7年のブランクがあって、復帰したものの、客の質がずいぶん変わったものだと感じることが多々ある。わがままを言う客は今も昔も変わらないが、そのわがままの質が違ってきているなという印象を受けることもある。
それと、携帯の依存率の高さだ。昨夜の客もそうだし、7月頃にもめた客もそうだった。ずっと携帯を手放さないのだ。常に誰かと話しているのだ。だから僕に向かって物を言っているのか、携帯電話の相手に物を言っているのか分からない。本音を言えば、こちらの要件が済むまで携帯電話を切ってくれませんかと言いたいところである。そこは個人の行動なので口出しするわけにもいかないのだが、本当はそう言いたいのだ。
だから彼らは人生がうまくいかないのだろう。不満の多い人生を送らざるを得ないのだろう。電話の相手と会話しながら、店員に苦情を言っているわけだ。つまり「ながら動作」である。一つ一つの行動が当然のことながら希薄になるだろう。希薄な行動は、当然その体験や記憶も希薄となるだろう。自分の中に希薄なものしか蓄積されないとすれば、当然、パーソナリティもアイデンティティも希薄になるだろう。いや、人格やアイデンティティが希薄だからそういうことができるのかもしれないな。
いずれにしても、人格やパーソナリティというものは、その人の歴史と深く関連する事柄である。それらは完成されるものではなく、蓄積されていくものだ。個々のしっかりした体験や記憶がそれらを形作るものだ。希薄な体験しかもてないとすれば、その人は自分の歴史を持たないことになるだろう。
人が自分の歴史を持たないということがどれほど苦しいことであるか、これを本当に理解している人は少ない。中には平気で記憶を消したいと訴える人もある。その記憶がその人を苦しめるからである。しかし、一つの記憶を消すということは、それに付随する多くの記憶をも失わなければならなくなる。記憶を消すなんてことができるとは思わないけれど、もし、そういうことができるとすれば、それはその人をさらに苦悩に導くはずである。なぜなら、人生に空白の時間があるということで苦しんでいる人を僕は何人も知っているからである。僕自身、人生のある時期の記憶が希薄である。それはぽっかりと口を開いた深淵のように僕の人生で君臨している。人生過程がそこで中断されているかのよう。僕自身の一貫性がそこで途切れてしまっているような感覚だ。
なんとかその空白を埋めようと、僕はその時代のことを思い出すようにしている。催眠なんか使ってはだめだ。記憶の回復に催眠はご法度だということは、日本ではどうか知らないが、アメリカあたりでは常識になっている。
ある人にある時期の記憶がないとすれば、よく言われるのは、その時代に何か精神的な傷つきや苦痛、つまりトラウマがあるからだということだ。でも、僕はそれだけではないと考えている。思い出すべき事柄が何もないような時期だったのかもしれない。思い出すに値するような出来事が何も生じなかった時期なのかもしれない。つまり、希薄な生き方をしていた時代の記憶は、やはり思い出せないだろうということだ。僕はそう信じているのだ。
だから、一つ一つの行動をしっかり意識化して、決して希薄にしてしまわないようにしなければいけないって僕は思うのだ。今は「それでいいねん」と軽く見積もっていても、それが10年後辺りに問題になるから怖いのだ。あの時代、自分が何をしていただろうとか、どうやって生きていたのだろうとか、どんなことが起きたのだろうとか、あるいは、自分はあの時代を本当に生きていたのだろうとか、そういう疑問が生じた時には、もう手遅れなのだ。そして、そういう空白は自ら生み出してしまっている場合もけっこうあるものだと僕は考えるのだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)