10月17日(火):愛を欠く理解
今日は定休日だ。休んでもよかった。取りあえず、午後から高槻に向かう。
朝、午前中は映画を観る。先週購入したマカロニウエスタンだ。今朝は「ケオマ・ザ・リベンジャー」を観る。フランコ・ネロ主演の作品で愉しみにしていたが、なかなか良かった。
映画の後、家のパソコンでサイト用の原稿を書く。どうにか一本は仕上げる。これもいつ公開できるやら未定である。
昼、何も食べる気がしなかった。家を出る。サイト原稿の続きを考えながら外を歩く。特に行くところもない。結局、高槻まで足を運び、夜まで職場で過ごす。
ブログの更新をしようかと思ったが、パソコン画面を見るのが辛い。目の奥のほうからズキズキと痛みが押し寄せてくる。明日にしようと決める。
いくつかブログの原稿も溜まっているし、しばらく更新をしていない。サイトも死なさないようにしなければと思うのだが、なかなか思うようにできなくなっている。
後は職場で勉強した。論文を2,3読む。
今月は夫婦をテーマに読もうと考えていた。どうも計画通りにいかない。社会心理学などに取り組んでしまい。当初の計画が未着手だった。
そのテーマに関連のある本、ないしは関連論文を収録している本を引っ張り出し、デスクに積んでおく。今月、何をする予定であったかが、こうしておけば、いつでも目に入り、意識に上るだろう。もっとも、積んでおいただけで終わる可能性だってあり得るが。
DVとか浮気問題とか、いろいろ持ちかけられてくる。個々の問題を調べる以前に、夫婦とは何か、結婚するとはどういうことであるかをきちんと知っておかなくてはいけない。より根本のことを知っておかなければいけない。そう思うからこのテーマで勉強し直そうと決めたのだった。
例えば、DV当事者たちは、DV問題が勃発すると、DVについていろいろ検索したりして調べる。でも、夫婦とか結婚については調べないようだ。実際はどうか分からないけど、僕の知る限りではそういうことをしている当事者はいないようだ。だから僕がきちんと勉強しておく必要を感じているわけだ。
人を愛するとは人を理解することだ。自分を愛するとは自分を理解することだ。僕はそう思う。
しかし、理解と愛は同一ではない。理解の基礎にあるのが愛であり、理解は常に愛の表現でなければならないのだ。僕が人を理解できるかどうかは、僕が人を愛することができるかどうかにかかっている。
自分も他者も愛することのできない人の人間理解ほどずさんなものはない。それをやっている人も少なくない。出来合いの理論で代用する程度だ。つまり、個人から抽象された理論を一方的に個人に当てはめるだけの理解だ。はっきり言って「○☓式」の理解だ。
先週、あるクライアントから聞いた話を思い出す。子供が悪さをして、母親はこの子は愛を試そうとしたのだと言ったそうだ。
この母親の理解はテキストどおりのものだ。生きた理解をしていないのだ。それもそのはず、この母親は愛の障害を抱えているからだ。この母親の理解は子供への愛に基づいていないのだ。
もう一つ言えば、理論を個人に当てはめるということは、その個人を非人格化する行為である。この母親はこうして子供の人格を奪うのだ。子供のした悪さは母親の非人格化に対する抗議であったかもしれないのに、母親にはまるで理解できないのだ。愛を欠く理解とは常にそういうものである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)