10月12日(火):昼歩く
今日は火曜日、僕の定休日だ。
やることがたくさんあるので高槻に出ようかどうしようかで迷っていた。しかし、その前に、昨夜、足に激痛が。文字通り激痛が走った。それで眠れず、今朝は寝坊してしまった。
痛みの方は一応は治まっている。かすかに痛みが残っている程度で、歩行に支障はない。歩けるのなら歩こうと思い立ち、外出する。
休みの日は歩かなければ。足が悪い。一か所悪くなると、それは全身に影響する。一番の問題は運動量が減ることだ。なるべく動き回らないようにしてしまうからだ。だからこそ、時間のある時は歩いて、日頃の運動不足を解消しなければならないわけだ。
とは言え、どこを歩こう。取り敢えず電車に乗って、河原町へ。
宣言が解除されたから人通りが多いかと思いきや、さほどでもなかった。確かに、少しは人の数が増えているのかもしれない。それでも観光客たちがいない分、閑散としている印象は拭えない。
河原町、木屋町、新京極などを練り歩く。特に目的もない。せいぜい景気はどんなもんかいなと見て回る程度だ。そして、やっちまった。古書店で本を買ってしまった。6冊も。
それはまあいいとして、特に欲しいものもない。買いたいものはない。歩いているとお腹が空いたので何か食べようと思ったが、食べたいものがない。結局、何も食べずに帰宅したのであるが、外食することにも興味がなくなった。美味しいものを食べたいとかいう気持ちが日に日に薄れていくようだ。食を楽しむという感覚が乏しくなってきている。
だんだん食事もキツクなってきている。これで母も困らせている。食べる気がしないのだ。おかずとか作られても胃に入らない。ホント、ご飯と漬物で十分だと思える時が多くなった。
母が夕飯を作る。一応、食べる。残しておいて翌朝の朝食にする。それでもおかずが残るので弁当にしてお昼に食べる。そういうこともある。かつては一回で食べていたのを、今では二回か三回に分けないと食べれない。
食べるとツーの奴が出てくるかもしれない。そう思うと、ガッツリ食おうなんて気が起きなくなる。少し食べて、もうやめとこってなる。ある程度、お腹が膨れたらそれで十分だ。
そんなこんなで、昔は繁華街はパラダイスだった。買いたいものもたくさんあったし、入ってみたいお店なんかもたくさんあった。行きつけのお店もたくさんあった。今は全部なくなった。わずかに古書店巡りだけが今でも残っているだけだ。
歩いているとタバコが吸いたくなる。そういう時は喫茶店に入ったものだった。コーヒーを味わいながら一服する、至福の時間だ。今、その喫茶店が禁煙になっているのだからどうしようもない。喫茶店の愉しみもなくなった。
今、喫煙したくなったら、喫煙場所まで行くか、あるいはパチンコ店だ。パチンコ店にはたいてい喫煙場所がある。コーヒーを味わいながらの至福の一服が、険しい顔をしたおじさんおばさんたちを眺めながらの一服だ。どうも僕の文化レベルが下がったような気がしてならない。
今日も一服はパチンコ店だ。
お酒も解除されているので昼飲みしている人たちがいる。かつてなら僕もその仲間入りをしていただろうけれど、今はそんな気分にはなれない。それに本も買ったので、帰って読みたいという気持ちも強かった。お酒は見送る。
コロナ禍でも良いことがある。不幸中の幸いということがどんなことにもあるものだ。呑み屋に対しての興味が薄くなった。お酒は家呑みかコンビニ呑みかに限る。
ブラックニッカのポケット瓶をよく買う。180ミリリットルの小さいやつだ。あれを二日に分けて飲む。一日では呑み切れない。呑むときもあるけれど、そういう時は最後は無理して飲んでる。グラスに注いだのをボトルに戻すってわけにもいかないから、無理して飲み干すわけだ。
酒も飲むが、量が減った。回数はあまり減らないけど。お酒の楽しみもいずれなくなっていくのかなあなどと思っている。それはいいことであるようで、寂しいことでもあるような、なんか複雑な思いだ。
さて、今日も規定量は歩いた。それで良しとしておこう。危惧していた足の具合も悪化はしなかったのでよかった。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)