10月10日(水):なぜ歌う?
夕べから膝が痛み出してならない。今日は昨夕よりもさらにひどくなっている。そう、怪我したところがやたらと痛むのだ。冬場はひどくなるということは去年で経験済みなんだけど、少しばかり、早くないか。
確かに、寒さの影響もある。気温が急に下がったことの影響もあるような気がしている。しかし、10月でこれを経験してしまうと、この冬は思いやられそうな気がしてならなくなってくる。これで一つ、気分が滅入っている。
昼休み。足を休めるために静かに座っている。外が騒がしい。神経に響く以上に膝に響く。一体、何事だ。
ブラインドの隙間から垣間見ると、高校生の一群が駅に向かっているところだった。試験期間かなんかだろう、こんな時間に下校するなんて。
ワイワイお喋りしもって帰るのはまだ許せても、どうして大きな声で歌うのか。そんなに歌いたいのなら、ジャンカラにでも寄り道して、そこで歌ってから帰ればいいのに。なぜ、こんな駅前で歌う。
歌を歌うのならプライベートの空間でやってほしいものだ。部屋にこもって独りで歌ってくれればよいのだ。僕は何もそんなところにまで干渉するつもりはない。あるいは、周りに聞こえない程度のハミングで済ませてくれてもいいのだが。
一応、公の場である。他の通行人たちもいるのである。近所に住んでいる人たちもいるのである。おまけに駅の建物が声を反響させるのか、歌声がやたらとよく響く。本人たちが思っている以上の騒音となっているかもしれないのだが、本人たちには気づかれないことなんだろう。
そういえば、昨夜も帰宅時にそういう人を見かけた。自転車に乗っている人だったけど、割と遠くから、その人の歌声が聞こえてくるのだ。なんで、そんなに大声で歌う必要があるのだろう。
僕にはこういう行為は奇矯に見えるのだけれど、世間一般の人にはもはやそうは見えないのだろうか。奇矯に見えないほど人々の感覚が麻痺しているのだろうか。
僕も自分の経験から知っていることなんだけど、自分を見ることができない人ほど騒音を好むのだ。騒音の音楽を四六時中聴き、騒音の場所に自ら赴く。時には自ら騒音を作り出して、自分自身に目が向かうのを回避したがる。
それに、これは躁的防衛にも通じるのであるが、自分の不安や恐れが意識化されないように騒々しくするのかもしれない。
いずれにしても、あまりいいことではないと僕は思う。それらの行為が、その人の成熟を妨げるかもしれないからである。
ああ、静かに昼休みを過ごしたかった。音が膝に響く感じがするのだ。だから今日は音楽もテレビもなしで過ごしている。頼む、病人や怪我人も世の中にはいるんだから、静かにしてくれ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)