1月8日:体罰と痛み 

1月8日(火)体罰と痛み 

 

 昨日の体罰教師のことから、今日は体罰ということを書いてみようと思う。 

 

 僕は個人的には体罰、いかなる体罰にも反対している。僕はそういう立場を取っている。あの体罰教師は別としても、教師や親が子供に体罰してしまうのは、常に我慢の限界が来た時だと、僕は捉えている。 

 つまり、子供に教えたり諭したりするのである。それでも子供は言うことを聞かなかったり、親や教師の思うとおりに変わっていかないというようなことが生じる。それでも親や教師は根気よく教え諭し続けるだろう。その時、教師や親は耐えているわけである。でも、その忍耐に限界が達した時、体罰が生じるということなのだ。 

 従って、体罰が生じる時、そこには子供の側の問題だけではなく、実は親や教師の忍耐が問われているのだという見解が生まれるわけだ。 

 

 それでは体罰というのは、本当に悪いことなのかと問われると、僕はそこまでは言わない。矛盾したことを言うようだけれど、その理由を知れば理解してもらえると思う。 

 まず、明確にしなければならないことは、親や教師がこの子にどんなふうに育ってほしいか、どんな大人になって欲しいかということである。そのために体罰が必要であるなら、体罰は容認される。 

 戦国時代なんかの武将の物語を読むと、その子供時代は体罰の連続だったりする。虐待と言ってもいい。でも、それは、そうしなければ戦場で生き残れないからである。だから、あなたの子供や教え子を、例えば、どれだけ拷問されても決して国家の機密事項を洩らしたりしないという大人にしたければ、どしどし体罰して、痛みに慣れさせればよい。もっとも、今の日本でそういう大人が生きていく場所はないように思うし、これからも子供をそういう大人にしなければいけないというような国になって欲しくないとは思うのだが。 

 

 以前、来られていたクライアントで、我が子をバシバシ叩く母親がいた。僕はその人に「子供にどんな大人になって欲しいと思いますか」と尋ねたのだ。母親は「あの子には優しい大人になって欲しい」と答える。痛みと憎しみを教えておいて、この子が優しい大人になるとは僕にはとても思えない。そして、「そのために子供を厳しく叩くことは有益でしょうか」と尋ねると、この母親は「もちろんです」と答えられたのだ。これは驚き以外のなにものでもなかったな。母親曰く「あの子は叩かれたことも感謝します」ということなのだ。 

 

 痛みを経験した人は他人の痛みに共感できると信じている人もあるけれど、必ずしもそうとは言えない。これはよく誤解されることだ。痛みを経験して、その痛みをきちんと癒した人が、本当に人の痛みに共感できるものなのだ。ただ痛みを経験しただけという場合、その人は他人の痛みと自分の痛みとを比較することに没頭してしまうだけだ。痛みが癒えていないから、その人は自分の痛みをどうしても見てしまうだろう。僕はそう考える。 

 思いつくまま書いてきて、収拾がつかなくなったな。本当は、体罰は親や教師の敗北宣言なのだという結論に持っていくつもりだったのに、どうも筋道が外れてしまったな。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

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