1月7日(月):キネマ館~『弾丸を噛め』
『弾丸を噛め』
1975年公開の西部劇映画。リチャード・ブルックス監督。ジーン・ハックマン、ジェームス・コバーン、ジャン・マイケル・ヴィンセントなどが出演。
約1200キロの乗馬レースに参加した8人の参加者たちのレースの顛末を描くという、シンプルな内容の物語だ。レースと言っても、何日もかけて、全員が同じコースを辿るものであり、抜きつ抜かれつといった展開はない。そのようなスリルをこの映画に求めるといささか失望するかもしれない。耐久レースなので、一人脱落し、また一人脱落するといった形で参加者が淘汰されていくことになり、そこに物語の面白味がある。
今回、たまたまネットでこの映画のレビューを読んだ。そのレビューによれば、本作はあまり評価が高くないようだ。僕はそれなりにいい映画だとは思ったのに。
本作には、レースの主催者側の人たちと参加者側の人たちが登場する。この対比がけっこう重要ポイントだと思う。この両者の対比を念頭に置いておかないと、本作は面白くないと感じられるかもしれない。
主催者側はスタートからゴールまで汽車で移動する。当然、これは資本家側の人たちである。賞金を出し、自分の所有する馬に勝たせたいと願う。そのために腕のいいカウボーイを、金を払って、雇う。主催者側はそういう立場の人たちである。
それに対して参加者側は雇われ人である。全員がそうとは言えないけど、少なくとも主役のハックマンは雇われの身である。その他の参加者は、金持ちになること、有名になること、名を馳せることなどといった思惑があるが、こうした願望は、資本家側のものではなく、労働者側のものだと思う。差別的扱いを受けるメキシコ人参加者もまた、労働者側に属する人と見ることができそうに思う。一応、参加者側は労働者階級の人たちとみなしてよかろう。
資本家である主催者は、まったく自然の驚異にさらされることもなく、いかなる危険な目にも遭わないのである。熊や蛇に襲われそうになるのも、酷暑の砂漠を横断するのも、目的の途中で命を落とすのも、すべて労働者側の人間である。僕はここに一つの対比を感じたわけだ。
ネタばらしになるが、ラストシーンでは、ハックマンとコバーンが並んでゴールする。その他の参加者たちは、ある者は病気で命を落とし、ある者は負傷し、ある者は馬の死によって棄権となり、ある者は襲撃され、ある者はこのレースを別の目的のために利用して権利を放棄してしまう。こうして参加者が一人一人減っていき、最後に残った二人が仲良くゴールするわけである。
僕が思うに、主催者と参加者の対比を認識していないと、このラストシーンは拍子抜けしてしまうものだと思う。二人が同着ゴールすることで、レースが成立しなくなるわけだ。資本家側の思惑が外れてしまうわけだ。このラストシーンは、ある意味では資本家に対する抵抗であり、労働者たちの勝利を表しているように僕には感じられる。自然や動物を資本家の思惑通りにさせないという思いがハックマンの演技から感じられたのは僕だけだろうか。そこに人間本来の生き方を見る思いがしたのは僕だけだろうか。
自然を開拓する資本家に対して、自然とともに生きる人間の勝利がここにあるように僕は感じた。当然、ハックマンの演じる主人公のような人間は過去の遺物である。こういう人間がもはやいなくなってしまったというメッセージが込められているのかもしれない。
一本の映画には複数のテーマがあるものだが、本作のもう一つのテーマが若者の成長にあると僕は思う。あるいは世代間のテーマと言えるかもしれない。この若者をジャン・マイケル・ヴィンセントがいい感じで演じている。
彼は若者特有の無鉄砲さがあり、自分は一番だと思い込んでいる。そういう思いあがった若者が年長者の姿を見て、時には鉄拳制裁を受けて、一つ成長していくのだ。彼の馬が死んだ時、ハックマンが埋葬してやれと言う。彼はなんでそんなことをしなくてはいけないのかが分からない。自然が有しているルールの観念、自然に対する崇敬が彼には欠けているのだと思う。ハックマンはそれを教え込む。
ラストシーンで一番良かったのは、ハックマンとコバーンが並んでゴールするところではなく、その二人を見るヴィンセントの姿である。映画の前半で見ていた姿とまるで違ったふうに僕には見える。年長者から何かを受け取り、新たな経験を積んだことの証だと僕は思いたい。その生きざまや生に対する姿勢、自然に対する態度など、彼は何かを受け取ったと思いたい。
全体的に見て、派手なアクションなんかは無い。レース参加者はお互いに競争相手でありながら、協力し合い、紳士的で仲が良かったりする。案外、現実の西部はそんな世界であったようである。ガンファイトの撃ち合いなんて滅多に起きない世界だったというのを読んだことがある。そういう意味では、却ってリアリティのある映画ということになるかもしれない。西部劇としての作り物の部分、フィクションの部分をできるだけ排除した作りになっているのかもしれない。
悪役も最後に登場するだけである。僕はヴィンセントが悪役の役回りを演じるのかと思っていたが、実に予想外の人物が悪役を担っていた。ここはいささか作り物めいているし、けっこうな御都合主義という感じがしないでもない。囚人脱獄にこのレースを利用したのだが、あまりネタ晴らししないでおこう。
本当の悪役がわずかにしか登場しないということも、本作を地味にしている一因であるかもしれない。悪役が登場して、いつか主人公と決闘するだろうといった期待が生まれない映画である。悪役の登場もレースの途上で発生するアクシデントの一つとしてしか扱っていない。あくまでもレースの過程を描くことに徹している感じがする。エンターテイメントとしては弱くなるかもしれないけど、硬派な映画作りがなされているようにも感じられ、僕は好感が持てる。
その他、相変わらず動物たちがよく演技をするなと感心する。背景の自然の姿も素晴らしい。草原地あり、岩場あり、山あり谷ありで、視界の開けた荒野もあれば鬱蒼とした森林もあり、池や湖もあれば砂漠もありと、さまざまな自然の風景を見ているだけでも、僕はこの映画を十分に鑑賞できる。
タイトルのことにも触れておこう。弾丸を噛むとは、劇中で実際に現れる。メキシコ人という理由で歯の治療を受けられなかった参加者が、レースの途中で歯が悪くなり、彼のためにハックマンらが弾丸で義歯を作ってやる。過去に現実になされていた治療法であるそうだ。
当然、現代の医療ではこんなことはしない。こういう治療も過去の遺物である。一方では、医療機器のない場所で伝統的な民間療法をしなければならない状況があり、そういう方法を信じて実践する人たちが描かれており、一方でそれは非道な待遇を受けなければならない人たちが描かれているようにも思った。このタイトルはそういう立場の人たちを象徴的に表しているのかもしれない。
さて、僕の唯我独断的映画評は4つ星だ。けっこう好きになった。
派手なアクションもないし、スリル満点のシーンもないけど、静かな印象が残る作品だった。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)