1月6日(金):スランプ
今日(5日)は、なかなかキツイ一日だった。この文章は5日の夜に書いている。仕事を終えて、真っ直ぐ帰ろうと思っていたのだけど、何となく、少し歩きたい気分になっていた。以前だったら、こういう気分の時には酒を呑んでいただろうけれど、酒には手を出さない。それは守っている。それで晴れない気分のまま、少し歩くのだけど、結局、寒いので、いつもの喫茶店に入って、これを書いている。
生きることは難しい。しかも、よりよく生きようと思えば尚更だ。もし、「こうすればラクに生きられる」というようなことを啓蒙するカウンセラーがいたとすれば(実際、それに近い人は何人もおられる)、その人は本当に生きてはいないのだと、僕は思うね。人間は生きていれば、いろんなことで苦悩を経験するものだと思う。「ラク」になることを目指すというのは、時には必要だけれど、しばしば不健康な考え方だと僕は考えている。
一体、何がそんなに苦しいのだろうと、今、考えている。時間に追われている感覚は確かにある。でも、クライアントのために割く時間は絶対に削りたくないとも思っている。他のことでもいろいろ追われている感覚がある。勉強ももっとしたいし、本も読みたいし、他にやらなければならない事務作業等もある。サイトのことも考えなければならない。原稿を書く時にも産みの苦しみのようなものを最近は頻繁に体験する。それでも、頭の中ではいくつもの文章が渦巻き、浮かんでは消えを繰り返している。
しかし、こうしたことの一方で、僕はある期待をしている。何かが変わる前に、しばしばこういう状態を経ることがあるのだ。過去に何度も経験したことである。だから、僕の中の何かがこれから変わっていくかもしれない。
この感じというのは、前に進めない感じであり、停滞感があるのだが、一言で言えば、一つのスランプ状態だということだ。スランプ状態というものは、僕にとっては、大歓迎なのである。スポーツでも勉強でも、あるいは何かの技能を身に着けるというようなことでも、やっていれば繰り返しスランプ状態を体験するものだ。僕の経験では、このスランプ状態の後に上達が見られるものである。
ただ、このスランプ状態にある時に、不健康なことをするという変な癖が僕にはある。だから今日もタバコの本数が元に戻ったのである。どうもそれは望ましくないことだ。
1月2日に兄たちが家に来た。年始の挨拶に来たのである。僕が初詣に行った日だ。兄たちの子供、僕から見れば甥にあたる子供なのだけど、その甥にお年玉をあげるのがイヤで僕は毎年逃げ回っているのだが、この日、僕がいない間に兄と父との間で何かあったらしい。それも気になっている。というか、そういうことにウンザリしていると言ってもいい。何があったのか、母から話を聴いたのだけれど、母の話は要領を得ないのでよく分からなかった。しかし、何となくだけど、僕は父に同情したい気持ちになっていた。僕が兄の立場なら、僕は実家に顔向けできないだろうと思う。ああ、僕も40になって、いまだに家族葛藤に巻き込まれている。いい加減、イヤになっているのだが、どうしようもない。
うーむ、イヤなことばかり書いているぞ。これでは貴重な読者を失うかもしれない。このブログもサイトの原稿も、書き始める時は読者にとっていいことを書こうと、読者の心が洗われるような美文を書こうと思うのだが、仕上がるのはたわごとを綴ったものばかりである。ああ、こういうのもイヤになってくる。これって、完全に「心の病」だね。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)