1月5日(金):生活と臨床におけるパンセ集(6)
(6A)因果
クライアントの言う因果は因果として成立しない。因果が逆転するからである。
「親にぶん殴られたから(因)自分はダメになった(果)」と訴える人は、同時に「自分がダメだから(因)親にぶん殴られた(果)」という因果を有している。
これは因果と呼ぶより、一つのセットであり、ゲシュタルトと見るほうが適している。循環するセットである。ヴァイツゼッカーの言うゲシュタルト・クライスである。
(6B)経験と自己の細分化
上述の因果は、因があって果があるという関係ではない。経験や自己の全体から因と果が抽出されるのだ。弁証法的に成立しているのではない。
全体の中から因となるものが引き出され、果となるものが引き出される。これは自己を細分化していることである。全体の経験からさらに細分化していることである。
(6C)二つの消去
この細分化は二つの消去を生み出す。
一つは因果の一方の消去である。もしくは否定である。「親にぶん殴られたから(因)自分はダメになった(果)」を抽出することで、果の方を消去するのである。
もう一つの消去は、因と果の間の時間間隔である。ここには歴史が消去されている
(6D)感情コントロール
怒りを鎮める技法があるらしい。怒りの経験を書き出し、それを別の視点、他人の視点で書き直すとかなんとか、そんな下らない方法らしい。
その人はそれで怒りを消去したそうだ。それはそれで不幸なことだと私は思うのだが、それはまた別の話だ。
私が思うに、それによって怒りが静まったのが事実だとしても、それは感情をコントロールしたのではなく、ニヒリズムに陥っただけなのだ。怒る価値のある対象からその価値が喪失してしまうことではないだろうか。彼の中にある価値が他人の価値に取って代わっただけではないだろうか。
(6E)行動のコントロール
我々はどの人も感情をコントロールしているのではない。感情から導かれる行動をコントロールしているのだ。そこを間違えている人のなんと多いことか。
(6F)異常か正常か
それでも感情をコントロールできている人たちがいる。あらゆる感情を惹起させない人たちもいる。さらには、極端なほど感情の切り替えを素早くできる人たちがいる。
この人たちは精神病と呼ばれている人たちである
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)