1月31日:二つの聴き方

1月31日(月):二つの聴き方

 細々した作業に追われている。一体どれだけのことをしなければならないのか、今朝リストアップしてみた。一つ一つは小さな作業なのだけれど、小さいために忘れたり、後回しにしたりしがちになる。数えてみると、30個ちかくあった。今日はそれをできるだけたくさん終わらせようと決める。

 まん延防止が発出されているけれど、やがて緊急事態に代わるだろう。東京の方ではその基準に限りなく接近しているようなので、まず東京で発出されるだろうし、それも時間の問題といったところだ。その後、大阪もそうなるだろう。また経済がガタガタになることは避けられないということだ。
 キシダは「聴く力」を強調してきた。人の話を聴くというわけだ。僕も仕事柄人の話を聴くのであるが、二通りの聴き方がある。一つは人の言うことをすべて聴くというものだ。さらにそこから言いなりになることだ。もう一つは何を聴いて何を聴かずに済ますべきかを取捨選択して聴くというものだ。こちらは自分の中にしっかりとした判断基準が求められる。話の中でどれが重要で、どれが周辺的な事柄であるかを判断しなければならないわけだ。
 この二つの聴き方のうち、後者が本当に聴くということなのだ。キシダは前者を聴くと考えているようである。右の意見を聞いたら右に、左の意見を聴いたら左にと、それは聴いたということにはならなくて、影響されていると言うのだ。もっと言えば支配されているのだ。
 選挙で政権交代しておくべきだった。僕にはそれが残念でならない。政治の世界はまずまずのタテ社会である。このタテ社会の問題の一つは、正しいか間違っているかの判断にタテが入り込んでしまうことだ。例えば、アベやスガのやったことは正しくなかったとしても、先代というだけで正しいと信じ込んでしまうなどということである。上の人がやったことは正しいというバイアスが判断に入り込んでしまうわけだ。
 従って、タテ社会であるほどしっかりした主体が求められるのである。僕はそう思う。タテの関係こそ主体を喪失してはいけないのだ。親子の関係でもそうである。これも一つのタテ関係だ。その関係の中で、子は主体を放棄してはいけないのだ。これを放棄した人たちがAC者であると僕は考えている。
 キシダは最悪だ。就任後、最初の1,2か月くらいは迷走しても許せるのであるが、今ではもう許そうという気もしない。コロナ対策は明らかに失策である。いや、対策の「た」の字もそこにはなかった。経済を回そうとすれば、何よりも検査である。早期発見して早期の段階で手を打たなければならない。火災でいえば、小火のうちに消火することなのだ。燃え広がってからの鎮火は相当たいへんになるわけだ。検査キットが足りなくなるというのは、かなり致命的である。
 それからワクチンなり治療薬の確保である。自国でそれらを作ることができていない以上、海外から輸入することになる。取り合いになることはわかりきっていることである。その取り合いで勝てるはずがないのだ。それはスガの時代からそうなのだ。国産ワクチンならびに治療薬の開発にもっと力を入れていなければならなかったのだ。
 あと隔離施設の確保である。確保だけでなく、有効活用をしなければならないし、できるだけ簡易に使用できるようにしなければならない。

 経済を回そうとすれば、感染対策をしっかりしなければならない。パンデミックを起こしてはならないのだ。まん延防止までは許せても、緊急事態なんてもってのほかである。宣言を出さないように対策しなければならないのだ。それにすでに失敗しているのである。その失敗も一昨年ならまだ許せたのであるが、丸2年を経て、3年目に突入している段階で同じような失敗しているようではどうしようもない。何も発展していないということなのだ。
 この失敗のしわ寄せは、僕たちではなく、次世代に持ち越されてしまうのだ。今、保育園や幼稚園に行けない子供たち、休校で学校に行けない小中学生たち、この子達にしわ寄せが押し付けられていくのだ。だから、子供を見ても今は可哀そうにしか思えなくなっている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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