1月24日(火):向上心を意識する
明日(24日)は書く時間が取れないかもしれないから、今日(23日)のうちに何か書いておこうと思う。
この毎日のブログのおかげでワードを打つのが速くなった。早くなっただけでなく、打ち間違いなどの頻度も少なくなってきた。だんだん上達しているのが分かる。この上達しているという感覚が僕は好きだ。自分が向上しているようで、自分が好きになれるのである。
今日も空き時間にキーボードを弾いた。昨日までうまく弾けなかった曲は、今日はかなり弾けるようになっている。嬉しい限りである。最初はかなり意識して弾く。「左手の2と4でファとレを押し、素早く1と3の指でソとミを押さえて」といったことを意識して弾く。これを繰り返していると、意識しないでも自然に指がそのように動いてくれる。こうなってくると、曲がスムーズに弾けるようになる。そして、ほとんど意識的にしなくても弾けるようになると、その曲をマスターしたと十分言えるのである。
こうして、できなかったことができるようになっていくというのは、何だか自分の中で有能感が芽生えてくる。そして、更にできないことを探す、つまりより難しいものに挑んでみようという気になるのである。
僕の場合は音楽だけど、他のことでも同じだろうと思う。勉強でもそうだし、基本的に芸術というものはそういうものだと思う。僕は芸術とは向上心だとはっきり思っている。というのは、音楽も絵画も、厳密に言えば、生活になくてはならないというものではない。それでもそういうものをわざわざするのである。僕は、それは純粋に向上心のなせる業だと捉えている。より上達したいとか、より良いものに巡り合いたいとか、そういう気持ちから人は芸術に携わるのだろうと思う。
また、やっているとテーマが見えてくるものである。今日、ある程度弾けるようになった曲も、一か所、左手で音が揃わないところが見つかる。全体を弾けるようになることを目指している間は、こういう細かい部分には目が行き届かないものである。ある程度弾けるようになると、うまく弾けていない部分が見えてくる。すると、今度はそこがスムーズに弾けるようになるということが取り組むべきテーマとなる。もちろん取り組まなくともよい。それでも聞くに堪える演奏であれば、そこで他の曲に取り掛かってもよい。それも一つの向上心だろうと思う。ある程度弾けるようになって、それで次の曲を練習することも向上心であるし、弾けるようになった曲をさらによく弾けるようになりたいと思うのも向上心だろうと思う。
僕の場合はだけど、向上心を掻き立てられてしまうのは、それがうまくできないからである。分からなかったり、失敗したりするからである。だから向上心に富む人は、人一倍失敗を経験しているのだろうというのが、僕の仮説である。
僕にはたくさんのできないことがあり、分からないことがあり、数えきれないほどの失敗を経験している。僕は自分が人よりも優れているとは思わない。でも、少しでもできるようになりたいとか、分かりたいとか、失敗を繰り返したくないとかいう気持ちは人並みに持っていると自負している。
他にも今日、望ましいことがあった。少し難しい哲学書に今取り組んでいるのだけれど、読んでいてよく分からないのである。それが今日、ふとしたことから輪郭が見えるようになったのである。これもまた一つの向上なのだと思う。
向上することは愉しいのである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)