1月23日:今日を終えて

1月23日(土):今日を終えて

 

 今日は少しばかりバタバタしていた。予定の仕事をこなしながら、継続中の室内整頓作業も合間を縫ってこなした。前者はほどほどの出来栄えで、後者はある程度のめどがついてきたといったところ。今日の勉強と読書だけはまだ予定の半分も終えていないので、帰ったらやる予定だ。その前にブログを書いておこうと思い、こうして書いている。

 サイトの方の原稿はまったく書けていない。せめてブログだけでも書く。できれば毎日書きたいと思っている。誰が読むかなんてことは気にしていない。ただ、こうして書いているだけだ。僕の記録である。僕のこの記録は、僕が今日生きたということを証してくれる。

 

 さて、僕はACのような理論には反対である。もちろん、それ以前のアリス・ミラーであるとか母原病のような考えも同様である。親も人間である限り完璧ではないし、理想的な子育てなんてそうそうできるもんではない。親も間違えるし、理想通りにいかないことも多々あることだろう。肝心な点は、親の何が間違っていて、何が正しかったかをきちんと見極めることだ。AC者は事態を単純化しすぎるのである。善悪二元論に過度に還元しすぎるのである。

 こういうことを言う前に何か実例を挙げた方がよろしいのだろうけれど、今日はそこまで書き込む時間もないので、別の機会に譲ることにしよう。

 一人の人間が心を病む時、そこには種々様々な要因が絡んでくる。親だけで決定されるものではないのだ。僕の個人的な考えでは、現代社会は人が育つには不向きであると思っている。親がどれだけ完全に子育てをやったとしても、社会がその子を蝕むことも十分あり得ることなのだ。

 この社会という言葉は広い意味を含んでいると思っていただいて差し支えない。要するに家庭外のものはみな社会という言葉に含めているのだ。従って、インターネットやSNS

なんかもここでは社会に含まれる。心理学者は親子関係幻想から解放される方がよろしかろうと僕は思うのだ。個人のあらゆる事柄を親に帰属させるような思想は捨てた方がよかろうと思うのだ。

 

 さて、親子とか家族の話には踏み込まないでおこう。やがて家族という概念すらなくなるかもしれないと僕は思っている。すでにそういう兆しがあるのを僕は感じているのだけれど、そうなるともはや親子関係論なんてものは過去の遺物になっているかもしれない。いつかそういう話も展開してみたいと思う。

 僕の方はと言うと、12月以降仕事が激減している。コロナ禍でも一定の仕事は維持していたのだけれど、12月でガタンと減り、1月でさらに減った。先日のクライアントなんかは父親が急死したために面接が流れたのだ。

 そうだ、そういうこともあり得るのだ。クライアントは大丈夫でも、クライアントの親とか祖父母とかが亡くなることもあるのだ。その方の父親がコロナ感染していたかどうかは不明だ。コロナ感染の可能性もあり得るが、当然、他の病気によるものである可能性もある。詳しい話は聞いていないので不明だ。いずれにしても、コロナ感染拡大ということになれば、こういうケースも増えてくるかもしれない。そうなると面接に来れる人も来れなくなってしまう。ますます仕事が減ってしまう。

 

 1月に入って仕事は減ったけれど、時間が空いた分、これまで出来なかったことに着手している。身辺整理もその一つだ。

 本もある程度処分する方向で考えている。処分する前にもう一度だけ目を通しておこうと思ってやっている。一応、お金を出して買った本だ。今はそれに興味が薄れたとしても、書架を飾り、僕の人生に付き添ってくれた本だ。最後の別れくらいしてもいいだろう。そして、本当に必要な本だけを手元に残しておこう。

 だから最近は帰宅して、夕食くらいはとるけれど、その後は寝るまで本ばかり読んで過ごしている。飲食店の時短営業はある意味ではありがたいことだった。

 さて、そろそろ帰りますか。今日もあと4時間ほど本を読む時間が確保できそうだ。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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