1月22日(土):キネマ館~『嘆きの天使』
1930年という古い映画で、マレーネ・ディートリッヒを一躍スターにした作品である。マレーネと表記されることが多いけれど、ドイツ語読みすれば「マルレーネ」の方が正確である。そのマルレーネ・ディートリッヒが「悪女」(こんな言葉は死滅すればいいのに)を演じる。
でも、主役は彼女ではなくてラート教授である。ギムナジウムの教師をしているカタブツ先生である。教壇につくと、ハンカチでチーンと鼻をかみ、生徒一同をギラリと一瞥して、英文学を教える。生徒の発音が悪いと正しく発音させるまでみんなの前で繰り返させるという、とにかくすべてが杓子定規であり、カタブツそのものといった感じだ。
彼の生徒の間で密かに人気なのがナイトクラブ「嘆きの天使」に出演中のローラである。生徒たちは集まってローラのブロマイド写真を鑑賞する。このブロマイド写真が凝っていて、腰のスカートにあたる部分に羽根が張り付けてあって、ここに息をフーっと吹きかけると、羽根がひらひらと舞い上がって生足が見えるという仕掛けになっている。バーチャルのスカートめくりが楽しめるわけだ。生徒から没収したそのブロマイドに、教授が周囲の目を気にしつつ(誰もいないのに)、フーっと息を吹きかける場面が面白い。また、こういうアイデアをローラ自身が生み出したのだとすれば、ローラは相当男心をくすぐる手腕に長けているという印象を受ける。
ラート教授は自ら「嘆きの天使」に足を運び、ナイトクラブに来ていた生徒たちを追い出したものの、生徒の悪戯のおかげで彼は翌日もナイトクラブを訪れることになった。そうして教授はローラに魅了されていく。
彼はローラとの結婚を決心する。その代わり、彼は教授の職を失うことになってしまう。その後、彼はローラたちの劇団(といっていいのか)と行動を共にする。彼は自らローラのブロマイド写真を売り、舞台に立つようになる。いまやローラのおかげで食べていけるというありさまだ。
ラート教授がどんどん堕落していく姿は悲しくなってくる。最後に、一団は「嘆きの天使」での公演を取り決める。かつてラート教授が暮らしていた町である。かつての同僚や知り合い、かつての教え子たちがラート教授を観に集まっている。彼らの前で道化を演じなければならないラート教授。その同じ瞬間に妻であるローラは他の男とじゃれ合っている。道化役に扮しているものの、彼の緊張は最高度に達する。とても冷静ではいられなくなる。そして、彼は破綻してしまうのである。
実はこの映画、冒頭でこうした結末を暗示しているのである。ある朝、ラート教授が目覚めると、飼っていたインコが死んでいたというエピソードがある。「もう歌声が聞けなくなった」などとお手伝いさんと会話しているのだ。死であるとか、取り返しのつかなさとか、そうしたテーマが最初に提示されているのである。よくできた構成だと僕は感心する。
ともかく、なんとも悲しい物語である。一見すると、悪女が男を転落させていく物語のように見えるかもしれないけれど、アニマに支配された男の物語である。こういう否定的なアニマに支配されてしまうというのは、教授が性的に成熟していないことの証である。
従って、教授のカタブツさ、極端な品行方正ぶりは、その未成熟な部分を覆い隠すためのものであったことが伺われる。あるいは、アドラー風に過剰補償と言ってもいいだろう。いずれにしてもそれは無意識の領域で起きていることである。意識の上では、彼は完璧な教育者であったのだ。彼の破綻は、ローラのせいではなく、人格の未統合によりもたらされたものであると僕は考える。彼は無意識をあまりにも切り捨てすぎていたのかもしれない。
さて、そのような分析めいたことはどうでもよく、本作は今見ても十分に面白い。90年も前の作品なので、現代のものとそのまま比べるというわけにもいかないけれど、ディートリッヒはやはり美人だなと思う場面がいくつもあった。多分、当時は相当美しい人だっただろうと思う。
その他、一座の面々であれ、生徒たちであれ、みんなよく演技をするものだ。昔の映画に出演している俳優さんたちはみんな演技上手だと僕は感じている。
そして、まあ、時代が違うんだなあ。ナイトクラブと言えども、普通に楽屋に出入りできるようだ。深夜のギムナジウムにも普通に忍び込むことだってできるようだ。物語とは関係ないところで、けっこうなカルチャーショックを受ける場面がいくつかあったよ。
あと、音楽も良い。作品のテーマ音楽でもあり、「頭のてっぺんから足のつま先まで、わたしの全部は恋」とディートリッヒが歌う三拍子もいい曲だなと思う。
僕の唯我独断的評価は断然五つ星だ。ここんとこ、5つ星の連続だな。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)