1月21日(土):バッハを弾く
いかん、今日(20日)もブログの更新を忘れてしまった。これで三日分溜め込んでしまった。朝のうちは覚えていたのだけれど、仕事や作業をしている間に、ついつい後回しになり、そのまま忘却してしまった。ブログよりも、サイトの方で頭がいっぱいになっている。
しかし、今日は作業が捗らなかった。隣の騒音に悩まされ続けた一日だった。午後の空き時間に、僕は文章を読むのも書くのも嫌になった。騒音で集中できないのである。そこでキーボードを引っ張り出して、演奏して過ごした。少しでも外の騒音を紛らせたかったのだ。
ここ数日、毎日時間を見つけてはキーボードを弾いている。しばらくブランクがあったので、腕が落ちたようだ。正確に言うなら、もともとそれほど上手でもなかった腕前が、更に下手になったというだけのことである。指がきちんと動かないし、楽譜は読み間違えるし、鍵盤は押し間違えるしで、ずいぶん勘が鈍ったものだ。
ブランクがあるというのは、音楽をしていると女性友達を思い出してしまって、それが辛かったからである。今日も、彼女が好きだった曲を、僕は半意識的に避けていた。どうもいまだにそれらは弾く気になれないのだ。彼女にピアノを弾かなければ良かったと今になって思う。
僕のピアノ(キーボード)演奏というのは、人に聴かせるためではないのだ。ただ、自分のために演奏し、自分のために曲を作るのだ。ソクラテスが「音楽をやれ」という神の啓示を聞いて縦笛を吹き始めたのと同じである。僕は僕の感情体験のために音楽をやるのである。
僕のピアノ演奏を聴いた人は、僕の家族を除いて、彼女が初めての人だったのではないだろうか。他に聴かせた覚えがない。もともと僕が好きになった人にだけ聴いてもらおうと決めていた。好きな人にしか弾いて聴かせないということをずっと守ってきたのだ。かつて僕が好きになった人たちは、僕が趣味でピアノを弾くということは知っているのだけれど、実際に演奏して聴かせる機会はなかった。だから彼女が一人目なのである。
それにしても、年を取ったのか、あまり難しい曲に挑戦しようとか、大作に挑もうとかいう気持ちがなくなってきた。楽譜にして2~4ページくらいの小品がちょうどいいと思うようになっている。それもあまりテンポの速い曲は食指が動かない。ゆっくりの曲で、それを丁寧に弾きたいと思うようになっている。
それに難しい所があれば、適当に音数を減らしたり、省略したりということをするようになった。自分で聴いて、「いい」と思えたらそれで十分なのだ。だから楽譜通りに弾こうともあまり思わない。以前よりも、より自由に演奏している感じがする。この「自由」さがあると、音楽というのはとても楽しいものだということが分かるようになった。
ちなみに今日演奏したのは、バッハの「フランス組曲」集で、その中から三曲ほど選んだ。この曲集は僕が演奏するのにちょうどいい。「イギリス組曲集」や「パルティータ」「フランス風序曲」「イタリア協奏曲」といった作品は、聴く分にはとてもいいのだけど、演奏するとなるといささか厄介である。「インベンションとシンフォニア」とか「平均律クラヴィーア」は、どういうわけかあまり魅力を僕は感じない。
なんだかいっぱしの演奏家のようなことを言っているけれど、大したことはないのである。装飾音は極力削除し、保持音も適当に短くして、それなりにそれっぽいのを弾いているだけである。でも、それで十分愉しいし、満足なのである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)