1月2日(土):コロナ禍を生きる
今日も高槻に出た。午前中はぐっすり眠って、よく休息した。午後から家を出る。気持ちとしては歩きたいところなんだけれど、ウロウロするよりかは、一点に留まっている方が良さそうに思い、高槻へ来た。
職場ではひたすら書き物をして過ごした。後は帰宅するだけなんだけれど、書き物ついでにブログも書いておこうと思い立つ。とは言え、特に書くこともないか。
毎日職場に来る。それだけでも自己が凝集される感じがする。あちこち放浪なんかすると自己が拡散してしまいそうでよろしくない。僕のような人間は一点に自分を拘束しておく必要がある。下手に違った世界を見ようものならそっちにのめりこんでしまいそうだ。一つの人生しか送れないのだから、その一つに自分をつなぎとめておかないといけない。そうでないと糸の切れた凧のようなことになりかねない。
そんなわけで休日でも、他に用事がない限り、職場に来ることにしている。ただし、電話は取らない。来客にも会わない。そういうことをするのは営業日だけにする。営業日以外で職場に来ている時は営業はしない。
当然、今日も電車に乗る。怖いなと思いつつも電車に乗る。
コロナ禍なので、さすが窓を閉めるバカはいなくなったな。換気してないといけないので、どの車両も窓がわずかつづだけれど開いているわけだ。昔はそれをわざわざ閉めるのがいてね、何するねんとキレそうになったのを覚えている。寒いのはみんな一緒だ。寒いのを耐えているのも一緒だ。それが分からんのかと言いたくなったね。
でも、車内でのお喋りはあまり減ってないようだ。自分たちだけで会話していると思いこんでいるのかもしれないが、そこで飛沫を飛ばしてしまう可能性があるわけだ。その飛沫はそこに留まり、次に座った人に付着するかもしれない。気遣いの足りない人は案外多い。
車内では一切喋らない、口を開かない。もし、くしゃみがでそうになったら、マスクをしたままで、手でマスクの周囲を押さえて(つまり隙間を完全にふさいで)、上体をかがめて床に向けてする。僕はそれを実践している
マスクも完璧ではないのだ。マスクの網目よりも小さい飛沫は飛んでしまうのだ。マスクしてるからいいなどと思わない方がいい。
100年前のインフルエンザでさえ人類は克服できていないのだ。コロナに打ち勝てなどと言うけれど、それが実現するのは200年後かもしれない。少なくとも、僕が生きているうちは人類はコロナの脅威に晒され続けることになると思う。脱コロナはあり得ても、コロナの終息なんてそんな簡単なものではないのだ。
コロナのおかげで感染症に対して僕は以前よりも用心するようになった。以前は手洗いやうがいなんてのもあまり真面目にはやってなかった。コロナは僕の意識を変えたと思っているし、おそらく、他の人もそうではないかと思う。
コロナに関して、これはあまり言われないことなんだけれど、何事も病は気からである。同じ病気に罹患しても助かる人と助からない人がいる。両者の違いとして、例えば持病の有無であるとか、健康状態の差異なんかが挙げられたりする。運がいいとか悪いとか言うこともできるだろう。僕は何よりも重要なのは生の衝動であると思っている。
フロイト理論の中で死の本能という概念ほど後継者に恵まれなかった概念はない。クライン派の人たちが受け継いでいるくらいで、あとはみな批判的である。この、生の本能と対立する概念である死の本能を僕は信じている。
ただし、フロイトの言う「本能」なるものは「衝動」と言い換えた方がよい。衝動とは何かといえば、かなり単純化した定義を下せば「あまりに強い欲求」とでも言えるだろうか。生の本能とは、生の衝動であり、主体を生へ方向づける動機付けであり、生きたいという欲求であり、生きようとする意志である。死の衝動とはその逆のものである。死への動機付けであり、死への希求であり、生の放棄である。
どちらの衝動も意識化されることもあれば無意識であることもある。どちらかと言えば無意識に属していることの方が多いように思う。人はあまり生の衝動を意識することなく生きているが、僕たちがこうして生きているということは、それ自体で、生の衝動を裏付ける証拠であると僕は考える。
死とは、この観点に立てば、死の衝動が生の衝動を上回ることである。これは意外に重要な見解であると僕は思う。例えば、特に目立った不幸もなく、挫折もなく、平穏に暮らしていた人がいきなり自殺をしたりする。彼を絶望させる要因もなければ、自殺する動機が全く見当たらず、自殺とはもっとも程遠い幸福な生活を送っていたりする。そういう人が自殺してしまうと、専門家も知識人もみな困惑する。どうにも説明がつかないからだ。
この場合、死の衝動が優勢になってしまったのだと考えると、一つの枠組みが与えられる。確かに、これは、結局のところ、何の説明にもなっていないと指摘されればその通りであるが、彼の自殺の原因を探求するよりも(これを探求しようとして見当たらないから困惑するわけであるが)、何が彼の生の衝動を弱めたのかを探求する方向に考えがシフトしていくことになる。彼の成功や幸福(自殺の原因とみなすことのできない要因だ)がその生の衝動を弱めることになっていたのかもしれない。
感染症に話を移そう。感染する人しない人、あるいは感染して発症する人しない人、さらには発症して助からない人と助かる人、この違いは生の衝動によるものと僕は考えるわけだ。従って、コロナ対策は、手洗い、うがい、消毒などに加えて、生きていこうとする意欲もまた欠かせなくなってくるわけだ。
僕は今の政権には批判的である。人命軽視の思想が濃厚な政治だと感じている。政府がしなければならないことは、国民の生の衝動が弱まらないような政策である。しかし、政府のやっていることは、もちろん報道で報じられる範囲内のことしか分からないけれど、生の衝動を弱めてしまうものばかりのような気がしている。生きる意欲を失わせるようなことを平気でやっているように思えてならないのだ。
コロナ禍で生きようとすれば、生の衝動を持ち続けていなければならない。生きようという意欲を強く持っていた方が良い。僕はそう思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)