1月18日:求むもの

1月18日(木):求むもの

 先週はハードだったが、今週はややゆとりがある。少しペースダウンしようと考えている。来週は再びハードな一週間になりそうだから、その時にまたペースアップすればいい。肝心なことは止まってしまわないことだ。たとえゆっくりでも前に進む方がましである。

 それで、今週は少しばかり時間的余裕もあるので、室内の整頓作業なんかをやっていこうと計画している。年末の大掃除でできなかったところもやっていこうかと考えている。

 いや、本音を言えば、すこしばかり休みたいという気持ちもある。休んでも構わないのであるが、結局、やることが先送りになるだけかと思うと、そうそう休んでもいられない。

 昨夜は久しぶりに仲の良かった飲み友達と会った。彼は高槻から引っ越していったのだけど、また高槻に戻ってきそうな感じだ。いささか放浪癖がある人なのかもしれない。一箇所に留まっていられないのだろうか。高槻に再度住むか、今度は神戸の方に行くかなどと考え中とのこと。高槻に住んでくれれば、また顔を合わすことができるだろうに、その辺のことは彼しだいであるが。

 それで、今朝はというと、朝の内に買い物関係を済ませておく。今回、特に不足物はなかった。それでも口実を作って、要は、マカロニウエスタンDVDマガジンを購入するわけだ。

 今号が第47巻だ。51巻で終了なので、後4巻。ここまで来たら何が何でも最後まで購入しよう。

 今週からウイリアム・ジェームスの『宗教経験の諸相』を再読している。すごくいい本だ。最近、少しばかりジェームスを見直している。

 ウイリアム・ジェームスも何かと迷いの多い人生を送った人であるように思う。ひどい鬱にもかかったと聞いている。だからだろうか、異常心理学とか精神分析にも興味を持っていたそうだ。そのひどい鬱をジェームスは学問を追及することで克服したのだ。

 僕は思う。学問をしっかりするだけで、心の病は快復しうると。失礼な言い方だけど、クライアントたちを見ていると、本当に無知である。無知であるのは、彼らがそういう学問に触れる経験がなかったがためである。学校では教わらない種類の学問のことだ。

 学問をやっていくと、世間で流布しているような説がいかに根拠のないものであるか、いかに間違ったものであるかが見えてくる。知恵のない人間に理解されている説はやはり知恵のない理論である。自分が理解できる理論は、自分の程度相応のものにしかならないものである。

 そう思うと、僕はもっと学びたいと思う。今、僕の中にある見解や認識が、十年後には未熟だったと思えるくらいになりたい。

 僕もまた日々成熟しようとしている人間だ。少しでも向上したいと願う一人だ。成熟や向上を恐れる人たちもいる。確かに、僕もそれを恐れていた時期があったので、その気持ちも理解できないわけではない。前に進むよりも今の位置に留まった方が安全だと感じられる時だってあるだろう。

 経験的に、一箇所に留まることよりも、前に進む方が幸せであると僕には感じられている。前に進めば新しい光景が見えてくる。一段高く上がれば、それだけ視界が広がるということも分かる。今も求めているのはそれだけだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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