1月17日:夜の大阪

1月17日(火):夜の大阪

 

 今日は定休日で休みである。先週、予定が何一つこなせなかったので、今日、それらをしなければならない。大阪に行く用事もあったが、これは昨夜、仕事が終わってから済ませておいた。

今日は、図書館に本を返却することから始めた。一週間の遅延である。職員から「次からは気を付けてください」と念を押された。発熱で寝込んでいたのだから仕方がなかったのであるが、別にこの職員さんにそれを分かってもらおうとは思わなかったので、「えらい、すんまへん」とだけ言っておく。

図書館の帰りに古書店に寄るつもりでいたが、今日はまた臨時休業の張り紙がしてあった。まあ、開いていれば、何か買っていたかもしれないので、良かったのか悪かったのか判断がつかない。

それからいつものカフェで、これを書いている。通りは人が少ない。そう言えば、昨夜の大阪でもそれは感じた。大阪でも、人通りはあるのだけれど、いつもより少ないと感じた。月曜日の晩ということも関係しているかもしれない。でも、皆さん、遊ぶ余裕がないのか、遊ぶのに飽きたのか。後者だったら素晴らしいことである。

 梅田の周辺はかつては僕の呑みエリアだった。この一年以上、その辺りはただ通り過ぎるだけの場所である。かつてほど魅力を感じない。昨夜歩いた時、賑やかな繁華街が、とても殺風景に見えた。活気はあるように映っているのだけれど、どこか人間味のない街のように、僕には見えた。この世界には居たくないという思いに駆られて、そそくさと帰宅した。昔は呑むために、わざわざ京都から出向いたものだった。今の僕からは信じられない行動だ。こういう時、僕は以前とはまったく変わってしまった自分を体験する。

 酒を呑みたいと思うことは、今でもたまにある。でも、呑み屋の辺りをうろつくと、途端に気が萎えてしまうのだ。呑みたいと思っていたけれど、呑み屋の前まで来ると、なんだか呑むことがバカバカしく思えてくるのだ。そこに何もないことを僕は知っている。少なくとも、僕が求めているものはそこにはないということを僕は知っているのだ。だから、何もないということが分かっていながら、店に入るということが非常にバカバカしく思えてくるのだ。約20年の飲酒歴が僕にはあるのだけど、無意味なものに情熱を傾けていたのだなあと、つくづく思う。

 昨夜の話が長くなったようだ。でも、それだけ印象的な夜だったことは確かである。僕が以前とは違っているということを再確認したからである。自分の変化というものは、どんな場合でも、後になってから気付かれるものである。同時進行では気づかないものである。後から、つまりすっかり変わってしまってから、「変わったなあ」と気づくのであり、また、後から事後的に気づかれなければならないことである。変化は無意識的でなければならない。変化が終了してから意識されるべきである。これは僕の考えである。これについては明日、書いていこう。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

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