1月15日(火):死と再生能力
今、朝の7時前。夜勤を終えて、高槻まで出てきて、喫茶店でこれを書いている。電車の中で眠り込んで、危うく降り損ねてしまうところだった。非常に眠たい。いや、眠たい以上に足が棒のようになっている。こんな感覚も久しぶりだ。夏に骨折した箇所が若干疼いている。いささか無理もしたかもしれない。
昨夜は割と忙しかった。客がダラダラと来る。面倒な客も中にはいる。自分の感情はなるべく表には出さないようにしている。でも、何らかのものが滲み出てしまっているのではないかと心配になることもある。
今日は一日原稿を書いて過ごそうかと考えている。未完成の原稿が山ほど溜まっている。一つずつ完成させて、公開していこうという気持ちになっている。
それから、過去に書いて公開した分にも手を加えたいと思っている。校正したいのだ。改訂版を出したいのだ。一昨年のブログなんかを読み返してみても、今とは若干考え方が違うなと気づく部分がある。サイトの方の原稿になると、それがさらに頻繁に起きる。当時はそう考えていたのだなという感じだ。常に今のものを書きたいと思うようになっている。
今週は暇週だ。この間にたくさんのことができるはずだ。Yさんは無理をしないでと僕に頼むけれど、僕は少々無理をするくらいの方が好きなのだ。
これを言うと、けっこう不快がられるのだが、僕は過労死は大歓迎だと思っている。命を落としてまで、人のために働いたというのは、僕にとっては、すごく誇りに思うことだ。それと、孤独死も大歓迎だ。孤独死は人間の本来の死に方かもしれないと、僕はそう感じることがよくある。
何千人という友達がいても、人間、死ぬときは独りだ。道連れを持ってもやはり死ぬ時は独りだ。僕の死は僕の個人的な事柄だ。一緒に死んでくれるという人が現れても、やはり一緒には死なないのだ。僕は僕の死を体験する。道連れは道連れの死を体験する。それは共有することなんてできない事柄なのだ。
だから、僕たちはどこまで行っても独りなのだ。耐えられないほど孤独な存在なのだと僕は思う。
ところで、再生能力というのは、下等動物ほど優れているものだ。トカゲは尻尾を切り離しても、また生えてくる。ナマコなんかは、内臓に障害が起きると、内臓をすべて排出するそうだ。何かで読んだことがある。そして体内で新たな内臓を作り出すのだそうだ。体を真っ二つに切ると、双方が不足の部分を再生して、二匹になる虫もある。高等な生物になるほど、そういう再生能力は弱くなるそうだ。当然、人間にはそれがない。腕を切られても、そこから新たな腕が生えてくるなんてことは人間にはできない芸当だ。
私たちは自分の体の一部を失ったら、それで終わりなのだ。再生医療なんかは目覚ましく発展しているけれど、人間が再生能力を持つようになると、人間は退化していくんじゃないかって僕は心配になる。失ってしまうと取り返しがつかないということが分かるから、僕たちはそれに意味を見出すことができるのじゃないだろうかと思う。それが進化の証なのかもしれない。
生命も、身体も心も、あるいは時間とか体験とか人生とかも含めて、僕たちは取り返しのつかない事柄に取り巻かれて生きている。それが分かるから、僕たちはいろんな事柄に価値を見出したり、かけがえのなさを体感したりできるのじゃないだろうか。再生するよりも、その方がよっぽどいいことではないかと僕は思う。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)