1月15日(日):徹夜明け
徹夜明けの厳しい一日になりそうだ。土日のどちらかに来るというクライアントには、極力、昨日に来てもらうようにしたので、今日は幾分、楽になるようにはしておいた。こういう対策もしておかなければならない。
昨夜のアルバイトは、割と体がよく動いた。いい傾向である。酒を止めてからというもの、身体が動くという感覚を覚えることが多くなった。体が軽いのである。痩せたためということもあるだろうけれど、それとは別に、何というのか、活力といったものが以前とは違うように感じられている。酒呑み時代にはあまりこういう活力は感じなかったように記憶している。
でも、この活力感というのは、かつて僕が有していたものだ。従って、新しい何かを体験しているというよりかは、かつて体験したものを再び体験しているという感じであり、だから、どこか懐かしいような感じをも受けている。若い頃はこんな感じだったなというのを、再体験しているのである。
ただ、徹夜明けのしんどさは、年を重ねるごとに大きくなっているようでもある。昔は徹夜するくらい何でもなかったのであるが、最近は特に堪える。徹夜明けで、山登りして、山から帰ってきてまた徹夜したとか、そういうこともあったのだけど、今はさすがに徹夜明けで山に登れと言われたら、そんな無茶なと思ってしまうだろう。いくら山歩きが好きでも、徹夜明けは勘弁してくれと言いたくなる。うーむ、年を取ったのだなあ。
徹夜明けで山に登ると、頭がはっきりしなくて、方向感覚が危うくなる。高所に登ったので酸欠みたいになっているのか、単なる寝不足なのか(確実にこちらの方である)、分からない感じになる。さすがに「なんでこんな無理してるんだろう」と思ってしまう瞬間である。それでも山に登るのだから、不合理なことをしていたものである。
それにしても、久しぶりに山に登りたいと、最近は強く思う。ただ単に歩いて登っているだけなのだけど、いろんな学びがそこにあったように思う。もう一度、始めたい。次の休みも、カウンセリングの予約が入っているわけではないのだけれど、しなければならない予定が詰まっている。体が一つしかないというのは、何とも不便なことである。
矛盾するように聞こえるかもしれないけれど、それでもゆっくりしたいとか、休みたいとかいう発想が僕にはあまりないようである。生きている間に、やるべきことはやっておきたいと思っているし、何かをするのにも時間が足りないと感じているのだ。読みたい本だってまだまだたくさんあるし、観たい映画や聴きたい音楽もたくさんある。行ってみたい所や、見てみたいものもたくさんある。もっと言葉を交わしたいと思う人たちもたくさんいる。そのすべてができるとは思わないけれど、一つでもやっておきたいと思う。人生はあまりにも短いと僕は最近よく思う。
ああ、熱が出たなどと言って、この一週間近くをそれほど有意義に過ごさなかったことが悔やまれる。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)