1月12日:ありがたくない住職 の話

1月12日(土)ありがたくない住職 の話

 

 その人は70何歳かの男性で、お寺の住職をされているそうだ。それだけ高齢でありながら、立ち飲み屋で直立したままガンガン酒を飲んでおられた。本人曰く、限界に挑戦しているのだそうだが、なかなかしっかりされておられる。 

 その店は僕がかつてクリニックに勤務していた頃によく顔を出した店だ。それ以後も、近くを通りかかるたびに立ち寄ることにしている。だから店の人たちは僕のことを覚えてくれている。ブランクが空いても、覚えてくれているのは嬉しいものだ。 

 

 さて、その住職であるが、ありがたい話など一つも出てこない。ただ、赤線の廃止を反対されていたことだけは同感だという感じがする。 

 僕は当然赤線など知らない世代の人間だ。父などからそういう話を聞く。住職曰く、赤線が廃止になって、こういう世の中になったのだと、若者の性犯罪が増えたことなどもそのせいだということなのだそうだ。確かにそれは一理あるとは思う。 

 赤線でなくとも、童貞の男の子に手ほどきするような女性がいたものである。恋人のいない男子でも、そういう女性たちの手によって大人の男になることができたのだ。今東光の「悪名」でもそういう女性が登場して、朝吉親分を手ほどきし、関係を結ぶ場面が出てくるが、昔はそういう女性が普通にいたものだと僕は思う。 

 恐らく、赤線の廃止は多くの童貞男性を生み出したことだろうと思う。多くの性不能者を生み出したかもしれないな。僕の父も成人すると先輩に赤線に連れられて、強制的に童貞を捨てさせられたと話していたけれど、そういういい先輩もいたんだなあと思う。そうして童貞を捨てさせて、経験をさせて、一人前の男にさせようという儀式があったわけだ。一つのイニシエーションなわけだ。 

 

童貞をずっと守ることが別に悪いことだとは思わない。殉教者はそれをするし、実際に去勢をする。これは人間にとってもっとも価値のあることを放棄することなのだ。性、並びに生殖を犠牲にしているわけだ。でも、これはその人が生まれながらにして性不能者であるという意味ではないのだ。彼らは自らの意志で性を犠牲にしているのだ。相手がいないから童貞のままだというのとは次元の違う話なのだ。 

 住職の話をしようと思っていたのが、赤線廃止ネタに集中しすぎてしまったな。赤線の廃止は一つの象徴なのだけれど、そのために多くの若い男女が経験させてもらえずに生きているのだ。これはなかなか表立った話にはならないけれど、そういう男女は多いのだ。30代で一度も性体験をしたことがないという男女にお目にかかることも稀ではない。性のタブーがもたらした副作用ではなかろうか。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

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