1月11日(月):時代遅れの私
今日は家の用事をするために仕事を休みにした。そうか、今日は祝日なのだな。成人の日か。今年の成人式は休止、延期、縮小ばかりであるようだ。
僕個人は成人の日はなくてもいいと思っている。成人式もその象徴的な意味が失われているようにも感じられるので廃止してもいいと思っている。20歳の人たちのイベント、それもクリスマスとかハロウィーンなんかのイベントと意味的に差がなくなっているように感じられる。
成人式というのは、僕が耳にかじったところでは、戦後にできたものであるらしい。戦後の疲弊した日本人ならびに若者たちを、鼓舞するというか勇気づけるというか、そういう目的で作られたものらしい。今やその本来の意味は失われているに等しいように思う。
未成年者が成人式の映像を見たら、こんな恥ずかしい大人になりたくないと思ってしまうのではないかと僕は思っている。新成人に希望を託そうという人がどれだけいるだろうか。彼らに希望を見いだす人たちがいるだろうか、そんな思いもある。
成人式なんてどうでもいい。人生に一度の出来事などといった謳い文句に踊らされる人は踊らされればいい。僕も二十歳の時に成人式案内のハガキが来たものだったが。そんなのくだらねえなどと言って無視した。本当はどの人も人生に一度きりの瞬間を常に生きているのが真実であるのに、その真実を忘れて、人生に一度だけというイベントの宣伝文句に踊らされるなんて、人生における本末転倒であると僕は考えている。
さて、日中は家の用事をして過ごす。思ったよりも捗らなかった感じがしている。というより、思っていたよりも作業量が多かったというのが実情だ。一部は明日に持ち越すことにした。
夜、少しばかり疲れたので一休みがてらテレビをつける。なんか世界のミステリみたいな特番をやっていた。そこでたまたま心理学の実験が紹介されていた。
例えば、リンゴジュースをオレンジ色に着色すると、飲んだ被験者はそれをオレンジジュースと答えたというのだ。他にもこの種の実験を紹介していた。なんてことはない、かつての連合主義心理学そのまんまじゃないかという気がしないでもない。
心理学はもっと魅力のある研究をしていかないといけないと僕は思っている。そう言う僕も、ではどんな研究だったらいいのかと問われると返答に困ってしまうのだけれど。経験的に知っていることを研究して証明したからとて、それ自体は学問的には意味があるとしても、我々の常識を超えるものとはならない。
心理学はそのように見られることが多いと僕は思っている。つまり、心理学というものは常識を超えるものではない、そのような学問として捉えられていることが多いように僕は思うわけだ。だから、自分の心のことは自分がよく知っているなどという錯覚に陥る人たちが増えるように思うのだ。もっと、人間の心ってこんなに分からないものなんだと思われるような研究をしていかないといけないようにも思う。
同じような批判は哲学にもある。哲学とは常識的なことを難しく言っているだけだと考える人もけっこうおられるようだ。彼らにすれば哲学は常識の中の学問、哲学は常識を超えることのない学問であるということになる。しかし、本当は常識が哲学の中のものであり、常識が哲学を超えないものでしかないかもしれないのに、彼らはそのことに思い至ることもないのだ。哲学が常識を作ってきたことを彼らは知らないのだろう。
昨今の哲学も心理学も、僕には興味がなくなっている。ある時代の心理学、ある時代の哲学に僕の興味関心は集中してしまっている。僕はそれでいいと思っている。時代遅れの人間になるのは構わない。時代についていって低俗な人間になるよりかは、時代遅れでも高尚な人間になる方がよっぽどいい。
ふぅ~、こんなのを書いている自分がますますイヤになってくる。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)