9月6日:IQ神話に塗油戦(3)~IQが測定しているもの

9月6日(金):コラム~IQ神話に挑戦(3)~IQが測定しているもの

 

 19世紀後半に心理学が誕生してから、能力心理学はかなり批判されたそうである。なぜ人間にはそういうことができるのかという問いに対して、人間にはそれをできる能力があるからだといった説明がなされてしまうためである。説明されなければならない事柄が説明に使用されてしまうというわけだ。これは何の説明にもならないということで、能力で説明することは一切控えようという動きが生まれたのである。

 しかし、20世紀になって、能力心理学が復権する。能力を説明の道具にしてしまうことが誤りであって、能力は研究対象になり得るものだという認識が生まれてきたのである。超能力でさえ心理学の研究テーマになり得るのである。その先陣を切ったのが知的能力だったと僕は思っている。

 知能研究は20世紀初頭のビネーに始まると言ってよいかと思う。ビネーはクラスについていけない幼児・児童たちが、果たして障害などのためについていけてないのか、それとも怠惰なためについていけてないのか、その判断をするテストを作成した。これは政府からの依頼があったのである。

 そうしてビネーは知能テストを作成していくことになるのだが、ビネーが想定した知能は生活場面と密接に絡んでいたものだった。例えば、3けたの数字を暗唱させるといった課題は、日常生活場面でも経験するものである。従って、ここで言う知能とは生きていく上で必要な知的能力といったニュアンスが濃いのである。

 その後、知能研究が盛んになり、各種の知能テストが作られるようになる。知能とは何かという問いに対して、知能とは知能検査で測定されるものだといった定義さえ生まれることもあった。これでは19世紀の能力心理学批判に逆戻りした観がある。

 一気に時代を進めよう。その間に、知能にはさまざまな領域があるとか、知能とは創造性であるとか、知能を巡る学問上の進展があるのだけれど、煩雑になるのでここでは省略しよう。

 現代の知能テストは、知識とかを測定しているのではなく、新奇な場面における知的活動を測定しているのだと言ってよいかと思う。そのテスト問題は日常生活場面とはかけ離れたものになっている。見慣れない問題を前にして、どのように考え、答えを導くか、そういうところに重点が置かれているようである。

 このような知能観に立てば、知能とは新しい場面での適応能力を意味するようになる。初めて遭遇するような場面で適切に考え、適切に行動できるかどうかが知能であるということになる。従って、学校で教えているような教科は知能には反映されないということになる。学校の成績がいいからと言ってIQが高いとは限らないわけである。その逆も同じである。

 

 ところで、IQ測定にはいくつかの条件が必要となる。見慣れない新奇な問題に対して適切に考えることができるかどうかだけでなく、それを制限時間内に解かなければならないという条件が発生する。

 制限時間内に問題を解くことの出来た人と、制限時間を超えて解くことのできた人と、両者を比べてみて、前者の方が知能が高いと言えるだろうか。同じように問題を解くことができたのである。「速やかに」という条件は本当に知能に必須のものだろうか。

 もう少しかみ砕いて言うと、ゆっくり考える人は速く考える人よりも知能が劣っているということが証明できるかということである。テストには制限時間がある。その制限時間内に終える人と過ぎてから終える人とでは、本当に知能に違いがあるのだろうか。

 

 もう一つの問題点は、知能テスト場面を現実生活場面に単純に移行できるかという問題がある。

 知能テストでは新奇な問題を解く。慣れない問題を解くわけである。これがよくできる人は、本当に日常生活において、新奇な場面における適応がいいのかどうかという問題である。

 もし、知能テストの成績が良ければ、日常生活でも慣れない場面に出会って適切に考え、適応的に行動できるはずである。ところが現実にはそうはいかないのである。テスト状況に比べて、現実の生活場面では様々な要因が介入してくるからである。つまり、現実場面の方が難しいのである。知能テストはそこまで測定できないのだと僕は思う。

 

 加えてもう一つ、人間は知能テストで測定される知能だけで生きているのではないのである。IQにEQを加えても同じである。つまり、学問としては知的能力を単独で切り離して研究する必要があっても、現実の僕たちはさまざまな能力を同時に活用しているのである。知的能力だけでなく、活動能力、感情能力、直観能力、反射能力などなど、敢えて能力という言葉を使えば、人はさまざまな能力を同時的に駆使して、さまざまな場面に応じているのである。IQはもしかするとその中の極小部分だけを測定しているのかもしれないのである。

 もし、そうであるとすれば、IQを神格化してしまうと、その人の一小部分でもってその人の全体を評価してしまうという誤りを犯しがちになるかと思う。それはIQの弊害以外の何物でもないのだ。

 

 以上、知能の話はここまでにしよう。本当はもっと分量が多くなるはずであった。細かい点も取り上げるつもりでいた。創造性というテーマも盛り込むつもりであった。ところが、書くのが億劫になったので、ここで打ち切るつもりだ。だから最後に内容が詰め込みになってしまった次第である。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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