9月5日:IQ神話に挑戦(2)~日本のトホホ事情

9月5日(木):コラム~IQ神話に挑戦(2)~日本のトホホ事情

 

 ビネーによる最初の知能テストは1905年に公表された。以後、ビネーは二度の改定を行っている。

 このビネーの知能テストは1908年(明治41年)にはすでに日本の学術雑誌で紹介されているという。かなり早い段階で日本にも紹介されたことになる。

 その後、大正末期から昭和初期にかけての自由主義教育の流れにそって、子供の知能を正しく評価しようとする動きに伴って、日本でも知能テスト作成の試みがなされるようになった。

 大阪では鈴木治太郎による「鈴木ビネー式知能検査」が大正14年に完成している。その他、東京市教育局による「国民知能検査」(大正12年)、淡路円治郎による「軍隊性能検査」(大正15年)などが作成されている。

 

 昭和10年代に入ると、軍国主義並びに全体主義の風潮が高まるようになり、子供の個性を無視する方向に進んでいく。これにより知能テストは一時下火となる。

 その時期においても、田中寛一は「田中B式知能検査」(昭和12年)と「田中ビネー式知能検査」(昭和18年)を作成している。前者の「B式」とは集団テストであることを示している。後者は戦後広く利用されたテストである。

 

 戦後、昭和20年代は再び知能テストの隆盛が起きる。

 アメリカの教育使節団が「児童の状態について測定し記録すること」を命じて、文部省は従来の成績簿とは別に指導要録を作成するように各学校に指示したのである。この要録の中にIQを記入することになっていたために、知能テストが再び利用されるようになったのである。

 僕が思うに、これが知能指数を神格化することに一役買ったのではないか。成績と一緒に必ずIQが記入されるのである。それだけIQというものが重要な指数のように映るのではないかと僕は思うのだ。

 昭和22年には、高等専門学校の入試に、学力テストと知能テストが併用されるようになった。つまり、知能テストが学力テストと同等の地位を占めているのである。

 翌昭和23年にはこの動きが大学にまで広がった。「進学適性検査」と称し、国立大学の入試に併用されるようになったのである。昭和28年までその検査は併用されたそうである。

 ちなみに、この「進学適性検査」は、当時の心理学者たちがその頭脳を振り絞って作成したものであるだけに、かなり優秀なテストであったらしい。このテストの結果と大学における学業との相関が極めて高かったという。僕は、これは復活させてもいいのではないかと個人的には思っている。ただし入試とは別で実施するのであればという条件を付けたいが。

 昭和30年代になると第一次心理学ブームがやってくる。宮城音弥先生や南博先生などがその代表格である。一般の人も心理学に対する関心を高めていた。心理学書は巷に氾濫し、知能指数とかいった心理学用語も普通に人口に膾炙するようになった時代である。

 そのブームに乗って、知能テストもさまざまなものが作られ、また、さまざまな場所で実施された。学校だけに限らず、企業の人事でも使用された他、司法の場面でも適用されるようになるなど、知能テストの活躍場が広がって行ったのである。

 しかし、この時期の知能テストにはまだ専門性があった。知能テストを作成したり実施したり、あるいは採点や評価ができるのは心理学者などの専門家に限られていた。それだけに、測定されたIQは権威あるものとして見られることが多かったようである。

 

 昭和40年代になると、事情はさらに発展していく。

 人材開発政策は人々の関心を能力の早期発見に向かわせることになる。そうして、知能テストは専門家の手を離れていくことになるのだ。つまり、「テスト産業」が生まれた時代なのである。

 テスト産業に乗り出した企業は、もともと心理学や教育を専門にしていないであろうから、かなりズサンなことをやってのけている。彼らはテストを販売するだけでなく、採点までも引き受け、さらに被験者の子供の将来を占うようなことまでやったそうである。もちろん、これは知能テストの本筋からかけ離れる行為である。

 育児雑誌などにも知能診断を付し、家庭で母親が子供に知能テストを実施させて、さらにその結果に基づいて子供にレッテル張りをするといったこともよくあったようだ。つまり、テスト実施者(ここでは母親)がテスト実施の訓練を受けているわけではないので、実施状況が子供により異なるという事態が発生しているはずであるが、それにも関わらずテストの結果だけは一律にそれぞれの子供に押し付けられるというようなことが起きているのである。

 さらに、子供の知能を高める学習書とか、知能を高めるという学習塾まで現れたというのだから、呆れる他ない。僕が思うに、もはやIQの本来の意味を日本人は見失っていたのだ。

 

 以上、明治41年から昭和40年代までの知能テストの歴史を述べてきた。ここでの歴史的出来事の叙述は『知的発達の心理学』(滝沢武久)に負っている。この本が昭和50年代に出版されたものなので、歴史が昭和40年代までしか記されていないわけである。

 その後の状況は詳しくは分からないけれど、昭和50年代も同じような流れが続いたのではないかと思う。

 昭和40年代から50年代と言うと、僕が子供だった時代だ。確かに、小学校で何度か知能テストを受けた記憶がある。「なんでこんなもんしなきゃなんねえんだよお」、などとクサリながら受けた覚えがある。大学でも一度、知能テストらしきものを受けた記憶がある。ということは、平成初期まで知能テストの実施はなされていたことになる。

 昨今の児童は学校で知能テストを受けるのかどうか、僕はよく知らないのだ。仮に知能テストが実施されているとしても、昭和40年代のものとはかなり趣が違っているだろうとは思う。

 しかし、まあ、歴史の話はもういいのである。要は、僕たちがどこで道を踏み誤ったかである。そこに注目したいのである。僕はそれを戦後に見出す。その時期に、知能テスト並びに知能指数ということが過大評価されたように思うのだ。それは権威のある指数となり、神的なほど盲信されたように思うのだ。

 そしてこの盲信は現代まで連綿と生き続けているのではないかと僕は思うのだ。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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