9月4日(水):コラム~IQ神話に挑戦(1)
今日、たまたま一人のクライアントがIQに関する話をした。先月まで来られていたクライアントもIQの話をしていたのを思い出す。その他、何人かのクライアントがIQに関連する話をされていたことも思い出す。
僕自身、何か月か前のことだけれど、知能ということをもう一度勉強し直した。僕なりの見解も持っている。そこで、少しばかり、知能とIQについて思いつくままに書いてみようと思う。
今日のクライアントがお話になったのは、「ギフテッド」と呼ばれる子供たちである。僕は単純に天才児と呼んでいるのだけれど、そういう言い方もあるらしい。
この子たちは生まれながらにして高いIQを持っているという。そして、その子たちが義務教育の流れに入ると、「浮きこぼれ」てしまうそうだ。
「浮きこぼれ」というのは「落ちこぼれ」の反対語であるそうだ。つまり、出来過ぎて浮いてしまう存在になるというわけだ。浮いてしまうだけならまだしも、優秀過ぎるのでクラスメートから敬遠されたりすることもあるそうだ。
外国には「飛び級」制度がある。日本でもやればいいのにというのが今日のクライアントの意見である。僕も「飛び級」には反対しないのだけれど、限界設定はしておかなければならないと思う。
と言うのは、IQは生活能力を示す指数ではないからである。実は、一般の人はここを見落とす。IQが高いということは、知能が高いということを意味している(と信じられている)のだけど、それは生活力の高さを示しているわけではないのである。
従って、いくらIQが大学生並みにあったとしても、小学生は小学生の生活しかできないのである。この大学生並みのIQを持つ子供を「飛び級」で大学に行かせることができたとしても、大学生の生活にこの子が適応できるかどうかという問題が発生するのである。IQはそこを測定していないのである。
知能テストというものを受けた経験のある人なら理解していただけるかと思うのだけど、知能テストの問題は、僕たちの日常に則したものではないのである。日常でもなかなかお目にかからないような問題をそこで答えるのである。
例えば織り込んだ紙に一か所切れ目を入れる。これを広げるとどのようになっているかを答えるといった質問がある。日常生活でこれをどれほど経験するだろうか。僕の記憶している限り、僕の生活では、この知能を使用したことは一度もない。きっと切れ目がこんな形になっているだろうと推測する以前に、僕は紙を広げることだろう。
知能テストの諸問題の多くは個人の生活とは遊離しているものである。この話はまた後に展開しよう。
その前に「飛び級」の話を片付けてしまおう。僕は「飛び級」はあってもいいけれど、2年くらいが限度だと思っている。小学1年生の子が3年生のクラスに入るという程度なら許せる。これが小学校高学年のクラスに入ったり、あるいは中学生以上のクラスに入ったりすると、却って、この子はついていけなくなると思う。勉強ではなく、さまざまな生活場面においてである。
要するに、大学生並みの知能のある小学生は、大学の授業についていくことはできても、キャンパスライフで戸惑うことが多くなるだろうということである。結局、この子は別の意味で「落ちこぼれ」てしまうかもしれないのだ。
今日のクライアントは、その話はよく分かると言い、それなら特殊なクラスを設ければいいのだという案を出された。天才児だけのクラスを設ければよいということだ。
なるほど、それは頷ける。しかしながら、僕は賭けてもいいのだけれど、天才児だけを集めたクラスを作ると、必ず、天才児たちの中で落ちこぼれが生まれると思っている。そうすると、ここでの落ちこぼれたちは「普通クラス」へ舞い戻ることになる。加えて、この子たちが普通クラスに戻って果たして普通の子供たちと同じようにできるのだろうかという危惧も生まれる。
このように考えていくと、天才児たちにまつわる問題はそんなに簡単なものではないことが分かる。特にIQだけで考えるとたいへんな間違いをやらかしてしまいかねないと僕は考えている。人間にはIQで測定されないさまざまな能力がある(例えば愛情能力など)のであり、そういう能力が生きていく上で知能以上に大切である場合もあると僕は思うのだ。
一体、一般の人はIQがどういうものであるかを知っているだろうか。知能テストで測定されているものがどういう知能であるかを考えたことはあるだろうか。一般の人が思っているほど、知能とかIQという概念は明確ではないのである。僕はそういう印象を受けている。
例えば、IQ100(これが標準の数値となる)とIQ110とでは何が違うのか、またIQ100とIQ70とは何が違うのか、一般の人でこれを説明できる人がどれだけいるだろうか。正解ではないかもしれないけれど、僕は僕なりの説明ができる。よければ、以下にその説明をしていこう。
最初期の知能テストは精神年齢を出すだけのものであった。これは年齢順に問題が並んでいて、子供は低年齢の問題から一個ずつ上の問題に進んでいくという方法のテストである。答えることができなくなったところが、その子の精神年齢ということになる。
10歳の子供が順々に問題を解いていって、8歳向けの問題は解けたのに、9歳向けの問題が解けなかったということであれば、この10歳児の精神年齢は8歳ということになる。
一番最初のビネーによる知能テストとはそういうものであった(ビネーに関しては後に取り上げたいと思うので、当面はそのようなものであったという理解で十分である)。その後、精神年齢の算出では不都合があり、指数を算出する方法が摂られた。これはターマンなどによるものである。
IQの算出方法はいくつかあるのだけれど、初期の算出法は「精神年齢÷実年齢×100」というものである。最後に100をかけるのは、単に小数点以下の表記をなくすためのものであり、それ以上の意味はないものである。
IQの利点は次のものである。先述の精神年齢が8歳の10歳児を取り上げよう。この子が5歳の時には精神年齢が3歳であったとしよう。5歳の時に2年の遅れが見られ、10歳の時にもやはり2年の遅れが見られるわけだ。そうすると、この子の知能は停滞したままであるかのように見えてしまう。要するに何も変わっていないということになるわけだ。
これをIQで算出してみよう。5歳の時のIQは「3÷5×100」を計算すればいいのだから、IQは60になる。10歳の時のIQは「8÷10×100」を計算するのだから、そのIQは80になる。
従って、この子は、5歳時にはIQ60であったのが、10歳時ではIQ80に上がっているということになる。精神年齢のみでの算出では、この変化が把握できないのである。IQを用いることでこの子の知能の伸びが発見できるわけである。
僕はIQそのものには反対しないのである。利用によってはとても有意義な概念であると思うのである。
さて、IQの標準は100になる。10歳の子供が10歳の知能を持っているということであれば、かならずIQ100になるのである。5歳の子が5歳並みの知能を持っている場合でも、12歳の子が12歳の知能を持っている場合でも、それは等しくIQ100になるわけである。
分かりやすいので10歳の子を例にしよう。この子がIQ100であるということは、この子は年齢相応の知能を有しているということを示している。正確に言えば年齢相応の精神年齢であるということだ。IQ110とは、一年進んでいることを示しており、IQ90は一年遅れていることを示していることになる。もちろん、これは指数の上での進みとか遅れということである。
IQ100の子とIQ70の子とでは何が違うのか。IQ70の子はIQ100の子よりも遅れていると言えば、おそらく間違いではないのだけれど、その遅れの性質に目を向けなければならないと思う。
僕はZazzo(ザゾかザッツォか正確な読み方を知らないのでアルファベットのまま表記する)の言葉に賛成する。IQ70という指数は、この子供が10か月ごとに7か月ずつ進歩してきたことを示すと、Zazzo先生は言う(『精神薄弱児の心理療法』より)。僕は賛成である。遅れを示す指数は、同時に進みを示す指数ともなるものである。
上述の理屈が理解できないという人は、知能指数が不変であると信じているのだと思う。これは一般の人が間違える点だ。指数は変化しないけれど、それは知能が変化しないということを意味しているのではないのだ。指数の恒常性と知能の恒常性ということを混同してしまうのである。
IQ70の子は70%ずつ進歩しているのである。100%の子と比べると、その差が広がっていくのは仕方がないことであるが、決して知能の停滞を示しているのではないのである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)