9月27日(火):休符の活用
僕は趣味でピアノ(キーボード、電子ピアノ)を弾く。
腕前は、その曲がショパンの曲なのか、モーツァルトの曲なのか、バッハの曲なのか、弾いている本人にしか分からないという程度のものである。母などは「あんたはいつも同じ曲を弾いているな」と言うくらいである。この程度のピアニスト(と呼んでいいのだろうか)が、ピアノのことについて話そうと言うのだから、恐らく信憑性は限りなく小さいだろう。
もうこの家族は引っ越してしまったけれど、僕の家の隣近所に、ピアノを弾く小学生の女の子がいた。夜、僕が家にいると、その子の弾くピアノが聞こえてきたりする。それを聴くともなしに聴いて、「ここでリズムが崩れるな」とか「ここは指のツブが揃ってないな」などと、偉そうなことを考えたりする。
ある時、久しぶりにその子のピアノを聴いた。僕はその時、この子が以前よりも格段に上達している感じを受けたのを覚えている。何が上達しているのか、最初は分からなかったけれど、曲がすごくまとまって聞こえるのであり、聴きやすくなったのである。
何度か聴いているうちに、僕はこの子の上達した部分が分かった。それは「休符」にあったのだ。楽譜には音を出す所の「音符」と、音を出さない所の「休符」とがある。この子は(恐らく、音楽をやる人は誰でも最初はそうだろうと思うのだけど)曲を弾く際に、どうしても「音符」の方に注意を奪われていたのだと思う。それが、「休符」をきっちりと入れるようになったのである。休符をきっちり入れることで、フレーズが独立し始め、まとまりを持つようになった。それが聴きやすくなった理由である。
数人でカラオケに行くと、そこには歌の上手い人と上手くない人がいる。因みに、僕は歌はへたくそである。カラオケで僕の歌う番になると、どこかへ雲隠れすることにしている。それはともかく、上手な人は、休符をきちんと入れる。下手な人はメロディーを数珠つなぎのようにして歌う。音程のずれはともかくとしても、この違いは意外と大きいように思う。音が外れようとも、休符がきちんと入っている歌はそれなりに聴きやすいものである。僕はそう感じている。
会話でも同じではなかろうかと思う。会話の下手な人は、「休符」を入れないものである。それは常に「言葉を発している」ような会話であり、そうしなければいられないといった会話スタイルになってしまうものである。会話における「休符」とは「沈黙」のことであるが、適度な沈黙は会話を引き締めるものである。
日常の生活でも同じで、何かをしている(「音符」)ことばかりに気を使い過ぎて、何もしていない(「休符」)時間をできるだけ排除しようとし過ぎる人たちがいる。そのためにその人の毎日は、却って締まりのないものになってしまっているように僕は思う。適度な「休符」を入れる必要があると僕は思う。
「休符」が大切だからと言っても、「休符」ばかりでは、今度は音楽が成り立たないのである。以前、連休について書いたけれども、僕にとって、連休とは「長すぎる休符」以外の何物でもないのである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
音符と休符の考え方は今も変わりはない。でも、今では、もう一つ追加したい文章がある。音楽でも、会話でも、仕事でも、「休符」をしっかり入れられないのは、その人が不安を体験しているからだという文章である。
事実、不安の強い人や後ろめたい何かを抱えている人などはひっきりなしに喋る。自分の何かをごまかしたいからなんだろうと僕は思う。
(平成25年6月)