9月2日(木):日本総ブラック化
先日、バーを経営している知人とバッタリ会った。この人は時短営業の要請をきちんと守っている人だったが、今年に入って、1月と3月しか働いていないという。後はすべて休業だ。多少の補償は出るかもしれないけれど、それでどこまでやっていけているのか不明だ。やはり厳しいのではないかと思う。
その他の業種でも厳しいところは厳しい。おそらく9割の企業はコロナ禍で厳しい状況に陥っていると僕は思う。そして、企業の業績が厳しくなれば、企業がブラック化することを速めることになると思う。
僕はクライアントにもあまり夢のあることを言わない。「日本の企業はすべてブラックな部分を持っていると思いなさい」などと平気で伝える。「クリーンな職場なんて日本中どこを探しても見つからないものと思え」と伝える。仮に、今現在はクリーンであっても、状況によってはブラック化する可能性が常にあるものだと肝に銘じておいた方がいい。
企業がブラック化する一番の要因は、国の貧困化にあると僕は思う。国全体が貧しくなるわけだ。企業は、経済状況の浮き沈みに関わらず一定の水準を保たなければならないとすれば、厳しい状況ではどうしても厳しいことをしなければならなくなるものだ。
あと、今はどの分野でもフランチャイズのような展開を見せる。大手グループの傘下に入っているものがほとんどだ。フランチャイズ店はブラック化しやすいと僕は思っている。
商品を実際に接客して販売する小売店がある。コンビニなんかがそうであるように、客に販売しているのはアルバイト店員だったりする。その上に店長がいるとしても、店長さんがじきじきに接客販売するなんてことは稀ではないだろうか。
その店長の上にはグループの支店があり、各支店の上には本部があったりする。本部で決めたことが下々へ伝わって販売に至るわけであるが、相当な距離である。しかも、商売で一番重要なのは接客販売の部分であると僕は思うのだが、その重要な部分が一番末端となる構造がある。末端がトップに直訴できない状況が作られているわけであるが、この構図は不都合なことや厳しいことは常に末端の方に押し付けることを可能にする。この構図自体がブラックを生む一要因となると僕は思うのだ。
僕は一人で仕事をする。上の構図に当てはめれば、僕の場合、本部からアルバイト店員までの距離がゼロということになる。個人商店の場合、本部とアルバイトだけの距離になる。この距離が短いほどブラック化できなくなる。それはつまり、上は下をかなりよく把握できるうえに、下も上にモノが言える距離にあるからで、相互の交流がより容易になるからである。上から下へ、その間に仲介が多くあればあるほど、どこかで齟齬をきたすことがあり得るし、その齟齬が大きくなるまで気づかれないということも起こるような気がするのだ。
もう一つの要因として、薄利多売の風潮を挙げたい。薄利多売の経営をすれば、客は嬉しいかもしれないが、どこかで悲鳴を上げている部署があるものと思っておいた方がいい。それは製品を製造する部署であるかもしれないし、その製品の材料を作っている部署であるかもしれないし、流通の部署であるかもしれない。どこかで限りなくコストを削減しないと薄利多売は成り立たないからである。
ちなみに、この薄利多売とは、いわゆるディスカウント店のことばかりではない。ポイントを貯めて商品と交換したり値引きしたりすることも含まれる。お得なクーポンの使用もやはり薄利多売の一つと言えると思う。
ポイントやクーポンで値引きされる分、他のどこかで利益を上げないといけないのだが、通常の値段を高額にするわけにもいかないとすれば、どこかで経費を削減しなければならないということになる。その辺りにブラックが生まれそうである。
薄利多売ということに関係して、「コスパ」なる言葉がよく使われる。コスパがいいとか悪いとか言われたりするのだけれど、個人的には非常に腹の立つ言葉である。
コスパがいいとは、値段相応では良くないということを意味するのだ。値段以上の値打が感じられないといけないということになる。それは薄利多売と同じことになるのではないかと僕は思うのだ。しかし、値段以上の値打が感じられるとは、消費者の主観に基づくものである。コスパを測定する客観的基準というものがあるわけではない。
買い物をして、値段の割に良い品であるかどうかは、その品によるのではなく、消費者やユーザーの主観で大いに左右される。値段の割に量が多いとか、使いやすいとか、長持ちするとか、あるいは美味しいとか、そういったことはその人の主観であるわけだ。主観でしか測定されていないものをメーカーが競うようになりだすと、ますます薄利多売傾向が助長されるように思うのだ。
つまり、コスパが良いと評価されるためには、誰がどう見ても値段の割に価値があるということが自明でなければならないということになる。反論の余地がないほど値段と価値とが不釣り合いでなければならないのだ。中途半端なことをしているとコスパが良いとは評価されなくなる。各メーカーがそんなところを競うようになると、あちこちでブラック企業の被害者が生まれることだろう。
こうした傾向は90年代後半のバブル崩壊以後に加速したものであると僕は認識している。正確な年代は把握していないけれど、それから少し遅れてブラック企業なんて言葉が聞かれるようになったと思う。景気のいい時代だったら、仕事が厳しくてもそれに見合った賃金が支給されるのである。仕事が厳しくなっているのに、賃金が見合わないということがブラックになるのだ。それに見合う賃金を受け取っているならまだ耐えられるかもしれない。給料は安く、仕事は厳しいということになれば、誰でも労働がイヤになることだろう。それでも今まで以上に働かせようとするのがブラックの本質ではないかとも思うのだ。
今のコロナ禍、さらには五輪の負債を抱えて、日本経済はますます厳しくなるだろうし、その状況ではブラック化する企業がいつでも生まれ得るものだと思う。かつてはブラックではなかったところもブラックになるかもしれない。賃金労働者はとにかく自分を守る術を身に着けていなければ生き抜くことができない、そういう世界になるかもしれないのだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)