9月19日:不要不急の発話

9月19日(日):不要不急の発話

 

 最近はこのブログも怠りがちだ。サイトの方の原稿を書くのに忙しい。この数日で30項目分くらいの原稿を書いた。A4用紙に換算して90枚程度だ。大した分量ではない。ただ、ここから原稿を推敲したり校正したりして、その後に公開していくという作業が煩雑なだけだ。

 今日も3項目を公開した。すべて第8章だ。夫婦に関する諸問題と題するページ分で、このテーマに関しては書く内容もたくさんあり、執筆には困らない。しかし、書きたい内容が多すぎて困る。書いても書いても追いつかない感じがしている。

 それでも、毎日いくつかは完成させて公開していこう。不十分なところがあっても、後日修正するのも良しだし、補遺で補足するのも良しだ。とにかく、一応の完成作は公開していこう。

 

 今日のお昼前、大きな作業車が前の道路に停まった。今、阪急の駅の外壁工事をやっているのでその関係の車両かと思う。

 作業車が停まった途端、一階のソバ屋の大将が文句を言いに行った。またか、と思った。最近、一階のソバ屋の大将が輪をかけてひどくなったような気がする。以前から、店の前に車が止まると注意しに行っていのだけれど、近頃はなんだかそれがひどくなったな。店の前の道路は店の所有地ではないだろうに。公共の道路であるはずだ。迷惑駐車に文句を言うならまだしも、おそらくそうでない車の運転手にまで文句を言うなら行き過ぎである。なんてことはない、「邪魔や、目ざわりや、どけ」って言っているだけだ。

 別に一階のソバ屋の心配なんぞせんでもいいのだけれど、あんなことをやっていると評判を落とすというものだ。それにコロナ禍だから道端で大きな声を出すなっての。

 コロナの感染は飛沫によるものだ。これだけはハッキリしている。会話、それも大声での会話は飛沫をたくさん飛ばすから制限されているのだ。飲食店、特に呑み屋が問題視されているのも、酒の席では声も大きくなり、会話も増えるからである。黙食が勧められるのもそのためではないか。

 そうなのだ、不要不急の発話は控えなければならないのだ。本当に用事のある時にだけ、必要最小限の発話に止めなければならないのだ。

 僕もそれを実践している。最近は親とも話をしない。手振り身振りでイエスかノーを表現することが多く。発話は控えている。買い物する時に声を出す場合でも、マスクの中で、できるだけ口を動かさずボソボソと発話する。飛沫を飛ばさないようにするためだ。

 ちなみに、僕はコロナ収束に協力しているつもりなのだ。ウイズコロナではダメなのだ。一度、きちんと収束させないといけないと思っている。一日の新規感染者数が全国で100人以下くらいまで減らさなければならないと思っている。

 ワクチン接種は、この目標に関しては、十分ではない。接種済みの人でも感染はするからである。重症化を防ぐのみである。抑制されるのは、人流よりも、むしろ発話であると僕は考えている。

 一階のソバ屋のように、道端でワーワー大声で言っているようでは、経営者としてダメだ。コロナ禍で自分の店を繁盛させようと欲すれば、コロナ収束に協力しなければならないのだ。あくまでもコロナ収束の協力であって、政府や自治体に対する協力ではないのだ。ここを間違えてはいけない。コロナを収束させて、経済を復活させること、経営者はこれを目指すものではないかと僕は思っている。そして、僕自身はそれを実践している。外に出たら一言も発しない。家族とも話さない。人前で声を出すのは面接時だけに限定している。

 ついでにもう一つ言おう。近所にコンビニがある。あの店は今はあまり行かないようにしている。店内のBGMの音量が大きい時があるからだ。あれだけ大音量だと、店員さんも声を張らなくてはならないし、客も同じである。お互いに言ったことが聞き取れず、もう一度聞き直したりすることもある。つまり、発話量も増えるわけだ。一回で聞き取れたらそれで終わるところが、複数回それを繰り返すことになるのである。飛沫を飛ばす確率がそれだけ高いわけだ。あのコンビニさんを批判するつもりもないんだけれど、コロナ感染に対する意識が低いと僕は思っているので、あまりそういう店には足を踏み入れたくないわけだ。

 僕自身感染しているかもしれないし、いつ感染するか分からない。少しでも感染者を減らし、且つ、広めないためにも、僕は不要不急の発話をこれからも控えていくだろう。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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