9月14日(木):ミステリバカにクスリなし~『能面の秘密』(坂口安吾)―1
テキストは『能面の秘密~安吾傑作推理小説』(角川文庫)。坂口安吾の短篇推理小説を8篇収録する角川文庫版のアンソロジーである。
坂口安吾は僕の好きな作家の一人だ。戦後のデカダン派などと称されるけど、戦前ものもけっこう僕は好きだ。
安吾のデビューは昭和6年の「木枯の酒倉から」であり、昭和30年に没するまで、およそ25年程度の作家活動期間があるわけだが、これは作家としては必ずしも長い方ではないかもしれない。短い期間に多くの作品を書き上げた人だと僕は思っている。
実際、安吾は49歳で没してるのだから、そもそも短命の人だった。酒や薬物に溺れ、心身を消耗させ、生命をすり減らしながら作品を書き続けたのだ。その辺りは太宰治と似ているかもしれない。でも、太宰と決定的に異なるのは、安吾は推理小説を書いたという点にある。
純文学者で推理小説に手を染める人も多いが、安吾の場合、その全著作中に推理小説が占める率が高いのだ。約3分の1が推理小説ないしはそれに準じる作品だというのだから、純文学者でもあり、推理小説作家であると評価する方が妥当な気がする。また、その他にも多くのエッセイや評論などを残しており、けっこう多彩な顔を持つ作家であったかもしれない。
純文学者としては「白痴」をはじめ「風博士」など主に短篇小説で名作を残している。推理小説としては『不連続殺人事件』をはじめ『安吾捕物帳』シリーズが有名だ。そして、その他のエッセイなどの分野では『堕落論』で名を残している。こうしてみると各分野で名作を残していることがわかり、とても才能の豊かな人だったように僕には思われるわけである。また、デビューしたばかりの松本清張を「この人は推理小説を書くといい」と評した慧眼の鋭さも見事である。
さて、本書は安吾の短篇推理小説集であるが、一体、安吾は推理小説でどのような短篇を残したのだろう。各作品を追ってみよう。
「投手殺人事件」
女優の暁葉子は夫の岩屋と別れて野球投手の大鹿との結婚を望んでいた。岩屋は手切れ金300万円を支払えば葉子の要求に応じると言う。この300万円を巡って、プロ野球のスカウトマンたち、新聞記者たち、芸能プロダクションの人間たちが錯綜して物語が展開する。そして、契約のために京都に赴いていた大鹿が何者かによって殺されるという事件が発生する。
人間関係が錯綜する辺りは『不連続殺人事件』を彷彿させるが、現代風の陳腐な言い方をすれば、本作はトラベルミステリである。東京~京都の間で展開されるアリバイ工作が印象に残った。
しかし、300万円を100円札と、最近発行されたという1000円札とでトランク二つに詰め込むとか、終点の嵐山駅からさらに清滝行きの電車があるとか、何かと時代を感じさせる。
「南京虫殺人事件」
「脅迫するんですか。警察を呼びますよ」ピアニスト比留目(ひるめ)奈々子の家から轟く大声。たまたまパトロールで前を通りかかった波川巡査は何事かと家に押し入る。そこには奈々子と他に二人の男がいた。何でもないと奈々子は波川巡査を追い返すが、波川巡査の第六感が働く。彼は娘で婦警でもある百合子を伴って、二人の男を尾行するが、返り討ちに遭ってしまう。そして、翌日、波川父娘は奈々子が殺されたことを知る。
本格的な推理小説というよりも、父娘の犯人追跡劇といったサスペンス色の濃い作品だった。この父娘の人間臭い魅力もさることながら、南京虫時計だの、時代を感じさせる描写も読みどころ。
「選挙殺人事件」
「ワタクシが三高吉太郎であります。この顔をよーくご覧ください」そう言って選挙演説するのは三高吉太郎本人。三高木工所で一山当てた主人は何思って選挙なんぞに立候補したのだろうか。新聞記者の寒吉は何かウラがあると考え、特ダネを狙って、三高の身辺をあらってみることにするが。
本書中、僕がもっとも好きな作品だ。「不連続殺人事件」で登場した巨勢(こせ)博士が最後に登場するのも嬉しい限りだ。吉太郎の演説、自殺した文士たちの本が並ぶ書架、さらには「放さないでくれ」とジタバタ騒ぐ吉太郎の真意など、謎と手がかりがさりげなく散りばめられ、さらに細かな伏線が張られている。心理の盲点のトリックもなかなか見事である。
「山の神の殺人」
公安委員の山田平作は警察へ出頭する。長男の不二男がヤミであげられたためである。その時、警察署で念仏を唱える声が聞こえる。そこには新興宗教の教祖がいた。なんでも、キツネ憑きを追い払うということで折檻し、死に至らしめたそうである。これを聞くと、平作は教祖に不二男の精神を鍛えさせようと企む。
本作は犯人側から描く倒叙ものである。本格ものは探偵がどのように推理して、誰が犯人であるかというところに興味が置かれる。倒叙ものは、まず、その完全犯罪が成功するかしないかの興味が生まれる。でも、これは大概において失敗するものである。そして、失敗した場合、①犯人はどこでどんなヘマをやらかしたのか、②最後に犯人がどうなるかという二か所の興味が生まれる。②は作品のオチにつながる部分だ。倒叙ものは、完全犯罪の方法がありきたりなものであっても、①と②が際立っていると印象に残るものである。ちなみに、本作では、①よりも②が優れている。
「正午の殺人」
記者の文作は人気作家の神田兵太郎宅に原稿を取りに行くところ。近くまで来たところで美貌の女性を見かける。あれが美人記者の安川かと文作は思う。神田邸にて、女中のアケミのもてなしを受け、原稿を受け取る。ちょうど正午のベルが鳴る。その後で安川久子がやってくる。噂通りの美人記者だ。文作はそう思い、原稿を持って、今度は挿絵画家の所へ行く。それから文作が会社に戻ると、社内は騒然としている。神田兵太郎が殺されたと言うのだ。そして久子が容疑者となっていると知ると、文作は憤然として彼女の無罪を証明してみせると息巻くが、結局、巨勢博士の力を借りることに。
アリバイ崩しがメインの作品だ。安吾は複雑な殺人方法を嫌悪し、完全犯罪とは完全なアリバイのことであるという自説を有しているが、いかにもその作者らしい作品であるという感じがする。このアリバイトリック自体は古めかしいものであり、途中でネタが分かってしまうのであるが、文作その他の登場人物の魅力が補って余りあるようだ。
さて、分量が長くなるので、ここで一旦項を改めることにする。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)