9月12日:文脈 

9月12日(火):文脈 

 

 今日は定休日である。朝から大雨だった。ウンザリする。天気がよければ、どこか気分転換に外出するところを、この雨ではどこにも行けそうにない。結局、高槻の職場にて一日過ごすことになった。 

 

 休みの日はミステリをお供にする。今月から密かに始めたことだ。家の書架から手ごろな一冊を選ぶ。今日は坂口安吾の推理小説集を選ぶ。 

 

 職場にて。まず、未完成だったブログのいくつかを完成させ、さらに新たなブログを書く。 

過去に書いた文章で、ブログ並びにサイトに上げることのできそうなものをいくつか選ぶ。いつか公開しようと思う。パソコン内に保存しておいても、失われる可能性もある。公開しておけば、サーバーに保存されることになるので、それがいいと思っている。 

 

あと、インターネットに接続してみる。定期的にこれを確認しておかないと、先月のようなことになってしまう。いざ、サイト作業をしようとしたら、ネットに接続できなかったといったことになってしまう。 

ネットなんて、まず、利用しないのだけど、こうして定期的に、週に一回くらい、ネットを開いておこう。 

 

 ブログ、サイト、書籍、そしてランディングページと、すべてやっていかないといけないと思うと気が重くなる。気力が萎えてくる。 

 ランディングページをどうするかで少し頭をひねってみる。いい策は浮かばない。 

 ところで、僕はバスター・キートンが好きである。チャップリンよりもキートンの方が優れているとさえ感じている。そのキートンが自伝の中で次のようなことを言っている。キートンは自分でギャグを考案し、それを自作の中で披露するのだけど、ある時、キートンは絶対に面白いし絶対にウケると自分でも自信満々だったギャグが、どういうわけかまったくウケなかったという経験をする。これほど面白いことをやっているのに、なぜウケないのだろうと、キートンは考えたという。そして、キートンは気づくのだ。どんなに面白いギャグであっても、物語の文脈から外れたギャグはウケないということに。 

 僕はこれは一つの真理だと思っている。ギャグだけではない。例えば名言なんかでもそうで、全体の文脈から外れたようなことは、いくら素晴らしい内容の言葉であれ、名言にはならないし、何一つ伝わってくるものがないのだ。名言集なんてものもあるけど、ああやって読む名言がしばしば何ら頭に残らないという経験をするのも(僕だけかもしれないけど)、その名言が文脈から切り離されてしまっているせいだと僕は思う。 

 音楽でもそうである。音楽においても、その曲の文脈に適合しない音は雑音に聞こえてしまうものだ。滅多にそういう作品はないけど、素人の演奏とか、作曲家の習作時代の作品なんかには、時折、そういうものが見られることがある。 

 文学作品でも同じである。作品の文脈とかテーマから外れたエピソードは邪魔になるだけである。僕が最近のミステリを読まないのもそこにある。大体、この傾向は80年代頃から生まれたと思うのだけど、事件とかその捜査に無関係の文章がやたらと多くなるのだ。主人公の過去経験とか、あるいは人物描写をかなり念入りにするようになったりとか、そういうものはミステリにおいては余剰すぎるってものだ。 

 僕がモノを書いたり、あるいは語ったりする時にも、そこはいささか注意する部分なのだ。今の文脈から外れてしまえば、あるいはその文脈と無関係なことであれば、いくら言いたかったことでも、相手には全然伝わらないのだ。今の文脈に適合した何かを言うか、言いたいと思っていることの方に文脈を近づけていくかのどちらかである。 

 さて、何が言いたいのかと言うと、サイト業者は見栄えをよくするために写真なんかを挿入したがるのだが、文脈に無関係な写真はむしろ目障りになると僕は思うっていうことだ。それなら写真なぞ入れない方がいいのだ。 

ランディングページは業者が作ったものであるが、見るだけで腹立たしい。やってほしくないこと、やってはいけないことのオンパレードなのだ。あれをこれから修正していくのかと思うと、それこそ気が重たくなるのだ。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

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