9月1日:『はだしのゲン』騒動 

9月1日:『はだしのゲン』騒動 

 

 このブログではあまり社会的な問題は取り上げないようにしているけど、今日は『はだしのゲン』騒動について僕の思うところを書いてみよう。 

 『はだしのゲン』とはまた懐かしい。僕の通っていた小学校にも図書館に置いてあった。何年生の時だったろう。僕は全巻読破した。確かに怖いと思ったし、いくつかのシーンは強烈なインパクトを残したのを覚えている。でも、『はだしのゲン』を読んで、精神に異常をきたしたという人を僕は知らない。 

 発端は島根県松江市の教育委員会がその描写の残酷さから閲覧を制限するという方針を打ち出したことから始まったらしい。教育委員会の言い分も多少は分かる。 

 でも、これは危ないから子供に刃物を持たさないようにしようというのと同じような発想ではないかと思う。子供は刃物で怪我をする危険性からは免れているけれど、刃物という一つの道具を使う機会を奪われてしまっている。こうして刃物を扱えない子供が増えていったというのと似ている。 

 危ないから、残酷だからと言って、それを子供から遠ざける。もちろん子供への配慮ということは必要なことだ。だけど、それによって、子供はなにかしらの可能性を奪われてしまう。だから、教育委員会が子供へ配慮しようという姿勢を持っているというのは分かるのだけれど、配慮の方向が間違っているように僕には感じられるのだ。 

失礼な言い方だと思うけれど、いくら『はだしのゲン』の描写が残酷だと言っても、所詮はマンガである。マンガという制限された枠内での描写しかできないものだと僕は思う。現実の光景はもっと残酷で凄惨だったろうと思う。マンガの描写がどうこうと言うより、そういう現実があったということを知ることの方が大切なのではないかと僕は思う。 

 もし、読んでいて怖くなったり、気分が悪くなったりした子供がいるとすれば、その子は内面の何かが脅かされてしまっているのだ。作品からの影響を強く受け取ってしまっているのだ。でも、その現象はその作品自体とは関係がないことなのだ。 

 だから、「『はだしのゲン』を読んでいて、怖くなったり、気分が悪くなったりしたら、読むのを止めて、先生の所へおいで」と子供たちに伝える方が大切なのだ。作品を遠ざけるのではなく、ケアの方が大切なのだ。ただ、そう言える先生が今の学校にはいないのだろうな。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

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