8月9日:古紙屋敷

8月9日(金):古紙屋敷

 

 ありがたいことに、今日も時間的に余裕がある。朝はいつもより少しだけゆっくりする。家でしっかり涼んでから外へ出ることにした。

 テレビではワイドショーが流れている。「とくダネ」だったと思う。何気なく見る。それで思ったことなんかを書いて残しておこうと思った。

 

 大阪の「古紙屋敷」の話があった。ゴミ屋敷ではなく、古紙なのだ。古新聞や古雑誌を集めては家の中や外に積み上げていく男性のことだった。

 男性は60代で一人暮らし。古紙で埋め尽くされた邸内で、わずかのスペースで生活している人だった。

 男性にとっては、それらは古紙ではなく、文化財であるとのことだった。いつか自分だけのミュージアムを作ると彼は語る。

 また、彼が古紙を収集するのは、酸素のためである。古紙を燃やすと酸素が減少するので、それを防いでいるのだと言う。現に、酸素が薄くなっていると男性には感じられている。

 この男性について、ある精神科医は強迫性障害の疑いがあると言う。また、地域との人間関係を築くようにするとよいといったことがコメントされていた。この精神科医さんに文句を言うわけではないけれど、もう少しハッキリ言ったらどうなんだと僕は思った。

 この男性は強迫性障害と診断するよりは、分裂病(統合失調症)と捉える方が的確だろうと思う。強迫性の症状は分裂病に対する防衛であり、強迫性症状を除去すると一気に分裂病が進行するだろうと思う。

 なぜ、男性が分裂病的であるかと言うと、彼の思考である。この思考はきわめて「自閉的」なものであるように僕には映るのだ。

 まず、古紙回収に出されている古紙類はゴミである。僕たちはそれぞれの印刷物に価値を認めることはできても、そこに出されている古紙はゴミであるという認識を持つ。おそらく、これは共通に持っている認識であると僕は思う。この男性にはそのように認識されていないのである。男性の言葉をそのまま信用するなら、この男性は一般の人たちと共通感覚の世界に生きていないことを表わしているように僕には思える。

 次に、彼は自分だけのミュージアムを作ると考えている。この思考はどうだろう。幾分、誇大妄想的であり、幾分「自閉的」であるように僕には感じられる。

 彼は古紙に文化財としての価値を認めている。それはいいとしよう。しかし、現実には古紙は古紙回収時のままの状態で放置されているに等しいのだ。文化財としての価値があると言うのに、彼はそれを読んでいるとか、それに目を通しているとかいった形跡がない。紐で括られた状態のまま放ったらかしにされていたりしている。つまり、現実には彼はそれに価値を認めていないのである。

 価値を認めていないにも関わらず、それに価値があると信じているとはどういうことだろうか。僕は、それは価値の喪失であると考えている。価値あるものが一切合切失われているのだと思う。本当は価値が喪失しているのに、まだ価値が残されていると信じていたいか、もしくは価値にしがみつこうとしているのかもしれない。

 言い換えれば、価値のあるものに囲まれることで、自分の中で、あるいは自分自身に、まだ価値が残されていると信じていたいのかもしれないのである。自分自身が無価値であると体験されているのではないだろうか、そんな風にも僕は思う。

 加えて、この古紙収拾事業は環境保護にも役立っていると男性は信じている。彼が古紙を収集することによって、酸素濃度が保たれているのである。

 いくつか補足しながら以上を踏まえると、古紙並びにその収集には以下の価値を含んでいることが考えられそうである。

 まず、①人が価値を認めずに処分するものの中に自分は価値を見いだしている(優越感)。②古紙収拾することで酸素が保たれている、環境保護の価値がある(人類の酸素を自分がコントロールしているという万能感や誇大感、ないしは酸素を救済している救世主)。③古紙収拾には、古紙そのものの価値があると同時に、その行為をしている自分にも価値が生まれる(無価値からの自己救済。従って、自己の価値が復権すれば古紙は読まれなくてもよいことになるし、無造作に積み上げておいても構わない)。④自分だけのミュージアムを作りたい(自分の偉業を誇示したいという自己顕示的願望があるかもしれない。いずれにしても自閉的な発想である)。

 さらにさまざまな矛盾を僕は感じる。古紙が積み上げられた家は、もはや人が住める状態ではないし、あたかも城壁の如く、古紙の束が外界を遮断している。外からは家の中が絶対に見えないのである。その中で生活するとは、絶対に人目に触れることのない生活をすることである。しかし、古紙の束に埋め尽くされた家は異様な光景であり、却って、人の注意を惹かずにはおれないだろう。つまり、人目を避けようとして、却って人目を集めてしまっているという矛盾なのだが、男性はその矛盾に気づいていないようである。

 また、すでに述べたように、彼は古紙に価値を見いだしているが、彼はそれを価値ある対象として扱っていないのである。価値を見いだしていると言っているのに、本当はそれが無価値であると(無意識的にであれ)分かっているようである。そこがやはり矛盾しているところである。

 男性は人間社会から隔絶して生きているようだ。自分の中に閉じこもりたいところがあるのかもしれない。それでいてけっこう自己顕示的なところもあるようだ。隠れたいようでいて、人前に現れたいようでもあり、そこも矛盾を感じる。

 ちなみに、自己顕示的というのは、取材に快く(かどうかははっきりしないけど)応じているところにも窺われる。ゴミ屋敷の住人の中には取材なんかを徹底的に嫌悪する人もある。外界の刺激に過敏になるのか、通行人が前を通っただけでギャーギャー言うような人もある。埋め尽くしているゴミは城壁であり、住人の世界を防衛し、縮小させてくれる働きもあるように僕は感じているのだけれど、それだけに外界に対しては敵意でもって反応することが多いように思う。要するに、外界の刺激を完全に締め出し、視線に晒されることを極度に嫌悪するような人も多いということである。

 この男性の場合、取材には応じるし、屋内の様子を見たいという取材陣の要望に対して、自らカメラを手にとって屋内の様子を映したりしている。隠さない、隠そうとしないのである。これは自己顕示の傾向ではないかと僕は思うわけである。

 さて、矛盾の話に戻ろう。人間はどの人も一枚岩のような存在ではない。パーソナリティにもさまざまな局面がある。人間の中に無数の要素があり、傾向がある。だから一人の個人が矛盾していることはごく普通のことである。この矛盾のあるところに、通常では、「悩み」が発生するのであるが、そういう矛盾のない人は存在しないのである。そういう人が存在するとすれば、その人はすでに何かが「壊れて」いるのだ。

 矛盾があって当然とはいえ、両極端のものが同居しているとなると、それは幾分、問題がある。分裂病とは、一部においては、そういう「病気」である。過度に敏感と過度に鈍感とが、そういう両極端が、一個人の中で同居しているのである。

 最後に酸素濃度云々の話も書き残しておこう。確かに、環境を保護するためにゴミを減らそうという発想は分かる。加えて、ゴミを減らすだけでなく、植物を植えるなどして環境を作ろうという発想もある。両方の働きかけが可能である。男性は前者だけを見ているようである。

 酸素の濃度が薄くなったと彼は感じているようだ。彼の言葉をそのまま信用するとしよう。ところで、酸素が希薄になったというのはどういうところから感じるのだろうか。そこはまったく不明である。仮に、酸素が希薄になるとは、「息苦しくなる」ことであると仮定してみよう。彼は自分が息苦しくなったと訴えているということになる。

 そうすると、こういうことである。彼はいつごろからか自分が息苦しいことに気づいた。この息苦しさの原因を何に帰属させたかである。この帰属のさせ方に注目しなければならない。彼はそれを酸素が希薄になったということに帰属させている。つまり、「自分がおかしくなった」ではなく、「世界がおかしくなった」と考えたわけである。自分はあくまでも今までと変わりがなく、世界や環境の方が悪くなったと認識したわけだ。もちろん、彼のこの認識は100%彼の主観によるものである。酸素が希薄なったという客観的なデータに基づいているわけではないのである。

 なぜ古紙になるのかは不明である。印刷物や出版物に対して男性がどのような感情を持っているのか、あるいはどのような経験を持っているのかは不明である。だからそこには触れないことにするのだが、酸素が希薄になった原因を、今度は古紙に見いだしたわけだ。自分が息苦しいのは、酸素が希薄になったからであり、酸素が希薄になったのは古紙を燃やすためである、こういうつながりが生まれているようだが、彼個人はこのつながりにまったく関与していないことになる。自分自身を疎外している思考であるようにも僕には見える。

 さて、ここにもやはり矛盾が生まれている。古紙は彼にとって価値のあるものである。一方で、環境を破壊し、自分を息苦しくさせた張本人でもある。一方では宝物であり、他方では敵なのである。宝物に対するように収集しては、敵に対するように放置しているのである。しかし、彼はこの矛盾を矛盾なく生きているのである。

 矛盾を矛盾なく生きているなどと言うと、カッコ良く聞こえるかもしれないけれど、大間違いである。夫婦のDV問題を例にしてみよう。

 夫は妻に暴力を振るう、妻を見ていると怒りがこみ上げてきて憎悪で一杯になってしまうと夫は体験しているとしよう。一方で、夫は妻のことをこよなく愛していると経験しているとしよう。夫の言っていることが嘘だと非難する人もあるのだけれど、夫の言葉をそのまま信用してみよう。そうすると、この夫は次のことを言っていることになる。妻を憎む自分と妻を愛する自分とが自分の中で相剋している、自分の中に相反する傾向が矛盾を生み出していると、そういうことを言っていることになる。そして、彼はこの矛盾と相剋に「悩む」のである。

 一方、この夫が矛盾していない場合を考えてみよう。夫は一方では妻を愛し、他方では妻を憎んでいる。でも、夫の中でそれが矛盾も相剋も起こしていない。そうだとすれば、夫の中で何が起きているのかということである。矛盾がここで生まれないということは、妻を憎んでいる彼と妻を愛している彼とが解離しているということではないだろうか。言い換えるなら、彼の中で生じているのは、矛盾ではなく、分裂である。だから、彼はこのことで「悩む」ことはないのである。他人がそれはおかしいと指摘しても、彼にはそれの何がおかしいのかが理解できないのである。矛盾が矛盾とならないのであり、それは彼の自己が分裂しているためである。

 

 ああ、長々と綴ってしまったな。他人のこと、それも面識のまるでない他人のことであれこれ考えてしまっている自分がイヤになってくる。ついつい興味をそそられて、ついつい考え込んでしまうのだけれど、無意味なことをしているように思えてならない。

 僕の町内でも古紙回収の日があるし、時々、回収車が巡回していたりする。新聞、雑誌、書籍が捨てられているのである。その中には読んでみたい本もあったりする。「捨てるんならチョーダイ」と言いたくなる時もある。でも、それをしてはいけないのだ。

 ゴミは、少なくとも回収されるまでは、そのゴミを出した人の所有に属する。僕はそう認識している。だから、回収以前に僕がそのゴミを漁ったりすると、それは所有者の領域を侵犯していることになる。

 また、その中にいくら欲しいものがあっても、所有者はそれを廃棄することに決定しているのである。所有者の意向を尊重すれば、無断で持ち出すわけにはいかないのである。

 僕はそうして何度か耐えたことがある。欲しい本がそこにあっても、僕は決して拾わない。だからだと思う、古紙屋敷の主人が悪びれもなく古紙を持ち帰っていく姿に憤りも覚えるのだ。今日のこのブログは僕のそうした個人的感情に裏打ちされている、要するに、僕の個人的感情だけで書いているものである。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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