8月7日:自己顕示(2) 

8月7日自己顕示(2) 

 

 昨日の続きを書こう。 

 

 承認飢餓感が強くなれば、それだけ承認欲求も強くなる。その人はそれだけ人からの賞賛や注目を必要とする。通常の手段でそれらが得られないとすれば、何か突拍子もないことをやらなければならなくなる。それは周囲が冷淡な反応しか示さないからだけではなく、そこまでしなければ無視されてしまうという当人の恐れのためでもある。 

 そこで望んでいる通りの承認や賞賛が得られたとすれば、そこで満足されるのはその人の自己愛の領域である。 

 この自己愛そのものは何も悪いものではない。良くないのは、その自己愛があくまでも当人に固着し過ぎているということにある。僕はそう考える。 

 自己愛は自己から広がっていく、拡張することができる。例えば、芸術家は自己の延長として作品に取り組んだりする。作品が承認されることは、そこでは自己が承認されることと同義である。仕事が自己の延長であれば、仕事における承認はその人の自己愛を満たす。自己を拡張していくことができれば、必ずしも自分自身が承認されなくても人は自己愛を満たすことができる。 

 あくまでも自分自身が承認され、注目されなければならないということであれば、その人は自己を拡張することが困難な人なのだと思う。あくまでも自分に執着しすぎているわけであり、これもまた未発達な要素を含んでいる現象である。 

 人が自分に執着しすぎるというのは、自分自身と世界との間に亀裂があるからである。外側の世界に自分自身を没入することができず、切り離しているからである。もし、外側の世界に自分自身を没入してしまうと、その人は、自分が失われてしまうという恐れを体験しているのかもしれない。その人は、外側の世界がどうあれ、自分自身が承認され注目されることを望むことになるだろう。 

 それがラーメン屋であれ、コンビニであれ、それはその人の世界の一つである。彼らはその世界と関わることがないのだろうかと僕は思う。店の品物に手をつけて、それを公開して、承認や注目を求める時、明らかにその人はその世界と関わりを断っているのだ。自分だけの世界に入っているようなものだ。だから、これらの行為は同時にとてもシゾイド的だという印象をも僕は受ける。 

 こういうことを考え始めると尽きるところがないので、この辺りで止めておこう。それと、肝心な点を一つ。両日に渡って書いてきたことは、あくまでも僕の私的な思考や感想でしかない。もし、読んでくれた人があるとすれば、その人はいろんな考えを持たれることでしょう。当然、僕の考えとは異なる部分もあることでしょう。それはそれでいい。あなたはあなたの考えを持つべきだと僕は思うし、僕が絶対に正しいことを言っているとは思いこまない方が賢明だと思う。実際、僕自身、僕の考えが絶対に正しいとは信じていないのだから。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

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