8月6日:自己顕示(1)
たまには何か書くか、とブログの原稿を開く。ただ、書く気にならない。今はブログに力を入れる気になれない。電子書籍やサイトの原稿を書くことの方が面白く、そちらを優先して、ブログなんて放ったらかしだ。
書くネタはあるけれど、あまり他者個人に触れるわけにもいかない。取りあえず、さっき購入した夕刊(日刊ゲンダイ)を開いて、何かネタになるものを探す。
面白い記事があった。それは某ラーメン店のバイトが冷蔵庫に入って食材を貪り食って、それをブログにアップしたというものだ。コンビニでもアイスクリームのショーケースに入り込んだ写真をブログにアップしたバイトがいたと聞いたことがある。当然、こういうことをするバイトは解雇される。
商品や食材も台無しで、そのラーメン店では開封されている食材はすべて廃棄したとのことだ。店側もひどい打撃だ。商品がお金であり、それが従業員の生活と生命とに密接に関連しているという感覚はこれらのバイトには皆無なようだ。周囲の人の生を危機に陥れてまで、彼らは自分のためにそういうことをしているというわけだ。
その記事では、ある心理学者の分析が載せられていた。要は、彼らは目立ちたいのだという説明だ。それはそれで正しい。でも、彼らがなぜそこまでして目立ちたいのかの説明は記載されていなかった。
もし、彼らが注目されたくて、承認や賞賛を求めているのだとすれば、この問題は自己愛の文脈にある。そして、突拍子もないことをしてまで満足のいく注目や承認を得たいのだとすれば、彼らは注目や承認に相当飢えているということになる。承認飢餓が強ければ強いほど、承認欲求が大きくなり、その人は一層自己顕示的になるだろうからだ。
ヒステリー性格者は自己顕示的であるが、そういう人の自己顕示には、かつて自分を無視してきた人たちに対する憎悪が無意識的に表されているものだ。このバイトの人たちがどうだったかは分からないけれど、憎悪の問題としてこれを考えることもできるのだ。
それはさておき、人間は注目や承認、賞賛を人一倍必要とする時期が人生のどこかにある。それが人生のどの時期かお分かりになるだろうか。それは乳児期から児童期にかけてである。
寄る辺ない幼い自我は他者からの注目や承認をそれだけ必要とする。それは自己意識や自己感覚を高めてくれるからである。それらが愛情の証と感じられることもある。自我が確立されてくるにつれて、それらは次第に放棄される。注目や承認は二の次になるわけだ。それを必要としなくてもその人は存在できるようになり、自己確認のために他者を必要とする度合いが減少するからである。また、自己愛に加えて、対象愛も発達するからである。
要は彼らが幼児的だということなのだ。若い人たちがそういうことをするのだけれど、年齢相応に発達していないということなのだ。そして、自分自身との間に乖離があるのだと僕は思う。迷惑行為をして注目を浴びようとするよりも、つまり過去に望んでも得られなかった事柄をどんなことをしてでも取り戻そうとするよりも、それが得られなかった自身の悲しみに向き合うことができないのだと僕は思うのだ。
いかん、いかん。こういうことを書いていると、次々に浮かんでくることがある。続きはまた明日書くことにしよう。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)