8月5日:承認欲求なんてない

8月5日(水):承認欲求なんてない

 

 一部のバカな(というように僕には映っている)心理学者は、人間には承認欲求があり、その欲求が満たされないと健全に育たないなどと言う。一般の人はそういう言葉をけっこう鵜呑みにするようだ。

 僕は全く異なった見解を持っていて、人間には承認欲求なんてものはないのだと信じている。クライアントの中にも自分は承認欲求が強いなどという人がいるのであるが、彼らが言っているのは、承認欲求ではなく、むしろ別の欲求なのである。そういうことも追々話していこうと思う。

 その前に、人間の欲求というのはさまざまなものが有りうるのであり、如何様にも名前を付けることが可能である。人間にはそういう欲求があるというよりは、そうして名づけられた欲求を持つようになるのかもしれない。そのようにさえ僕は思う。

 

 さて、承認欲求ということであるが、これは「私が承認されることを欲する」という欲求であると解釈しておこう。実は、この言葉の「承認」というものが非常に曖昧な意味を含んでおり、けっこう幅広い概念であることが問題を複雑にしているように思う。

 僕が友達のK君とばったり会うとしよう。僕はそこにいるのがK君であることを認識し、K君を承認する。僕はK君に挨拶をするだろう。「おはよう」とか「こんにちは」とか。するとK君も僕を認識して、僕に挨拶を返してくれるだろう。僕はそこにいるのがK君であることを承認したわけであり、K君も僕を承認したことになる。

 日常的によくある場面であるが、でも、僕はそこで僕の承認欲求が満たされたとは体験しない。それに承認欲求を満たそうとしてそういう行為をしたのでもない。僕は礼儀としてあいさつをしただけであるかもしれないし、K君が仲良しであれば、K君が好きだからあいさつをしたに過ぎない。

 次の場面を考えてみよう。僕はK君を認めて、彼にあいさつをする。K君は僕を見てそっぽを向き、無言のまま僕の傍を通り過ぎて行ったとしよう。要するに、K君は僕を無視したわけだ。

 K君があいさつを返そうと無視をしようと、彼が僕を承認していることに違いはない。K君が僕を無視しようとも、彼が僕の存在を承認していることだけは確かである。それなら、僕は無視されたけれど承認欲求は満たされたということになる。果たしてそこで本当にそのように僕は体験するだろうか。

 こんな考え方ができるかもしれない。その場合、確かに承認欲求は満たされたけれど、無視されるという形で、いわば僕の望まない形で、悪い満たされ方をしたのだと。食欲を満たす場合でも、美味しいものを食べて満たす場合もあれば、美味しくないんだけれど空腹を満たすためだけに食べる場合もあるかもしれない。同じように食欲は満たしているのだけれど、その満たされ方が違うということになる。

 こうした考えは一理あるかもしれないんだけれど、僕はここではそこに踏み込まないでおく。と言うのは、そこに踏み込むと、欲求そのものの話から逸脱して、欲求の満たし方の話にすり替わっていくように思うからだ。

(中絶)

 

 この後の話は、承認欲求と呼ばれているものは、本来人が社会に出たい、外の世界に出たいという欲求であるものであるという話が続く予定だったのだと思う。

 承認欲求と称されるものに「褒められたい」という欲求があると思う。褒めて伸ばすと言う人があるように、褒められると自分が伸びると期待してしまう人もあるかと思うが、その人は自己の無力感に襲われているのだ。

 褒められるというのは外因である。従って、褒められるために何かをするという傾向が強くなるかもしれない。その場合、失われるのはその人の主体性であり、興味や関心である。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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