8月3日:現実からの退却拒否

8月3日(火):現実からの退却拒否

 

 今日は定休日だけれど、夜に仕事が一つ入っている。朝の内から、今晩の仕事はキャンセルされるのだろうなという予感があった。すでに二回連続でキャンセルになっており、それは同時に僕の休日が二回無為になったということでもある。今日もそうなるだろうとは思っていた。昼前に家から電話をかけて留守番電話が入っていないかを確認する。今のところキャンセルはない。それなら今日は仕事があるかと期待しつつ、家を出る。

 家を出てから職場に着くまで、いくつか寄り道したのだけれど、その間に留守番電話が入っている。メッセージを聞くと、雑音が激しくて内容が聞き取れない。どうも今晩のクライアントのようでもある。しかし、ナンバーディスプレイでかろうじて読み取れる電話番号を照らし合わせると、そのクライアントの電話番号ではないのだ。また他の人だろうか。その電話番号にかけてみてもいいのだけれど、相手が誰なのか分からないので、取り敢えず放置だ。

 職場ではひたすら書き物をする。ブログも公開した。ワードの不調で原稿はすべて一つにまとめている。ブログやサイトの原稿、その他諸々のものが一つに、いわば長い巻物の中で連なっている。ブログを公開する時は、ここから公開分を切り取って作業する。

 しかしながら、A4で60枚近い巻物の中に、何が入っているか僕自身把握できなくなっている。今日は1ページ目から最終ページまで目を通す。ブログは6月末ごろのものから残っていた。それらを含めて、今日は5件のブログを公開した。巻物のページ数はあまり減らずである。

 そうこうしているうちに、予約の時間が来た。一応、面接できる準備態勢は整えておいた。作業しながら待っているけれどお見えになられない。そうなると、やはり聞き取り不可能の留守番電話は彼のキャンセルの電話だったのかもしれない。彼に電話しようかと思ったが、止めだ。彼から何か言ってくるまで動かないことにしよう。

 

 どうせ、しんどいから休ませてくださいという内容だったのだろう。彼の場合、しんどいってのは、体の不調ではない。気分の問題なのだ。カウンセリングの何がしんどいのかというと、現実を見ることになるからだ。現実の世界も、現実の彼自身も、彼が思っているものとは違うのだ。この差異が大きければ大きいほど、現実を見てしまうことの衝撃が大きくなる。

 そこで臨床家たちは早急な直面化を避けようとする。僕もその考え自体には反対しない。でも、遅かれ早かれ、クライアントは現実に直面してしまうものだ。カウンセリング以外の場面でそれに直面してしまうことも多い。また、直面化を避けている間に現実が厳しいものになっていくこともあり、現実が厳しくなってから直面化してしまうということもある。

 クライアントはほどほどのところで現実を見なければならない。それが苦しい体験になることは僕も承知している。自我が強化されるまで直面化を避けたとしても、僕の経験ではあまり違いはない。衝撃を受けるという点では変わりはないのだ。そこで壊れてしまうかどうかよりも、その衝撃からいかに速やかに立ち直るかの方が重要である。

 現実のものが見えてくると苦しくなるものだ。苦しいから止めますという人は見込みがない。そういう人はこれまでの人生の様々な場面で同様のことをやっていることも多い。苦しくなると退却するというパターンが随所に見られるものである。その退却がどれほどその人の人生に損失をもたらしてきたか、それがどれほどその人自身を棄損してきたかを本当に理解しない限り、その人は退却し続けるものだと僕は思う。

 現実から退却しない人だけが次に進めるのである。退却する人に対しては、僕は退却を制止する権限など持たない。他人に対していかなる強制力も拘束力も僕は持たない。だから、退却する人は彼がそうするのを僕は認めなければならない。ただ、僕自身はそういう退却を拒否していきたい。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

 

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