8月20日(金):母性欠如社会
朝のラッシュ時間を避けて通勤している。今日は少し巻き込まれた。7時半には高槻市駅に到着していて、駅から出ていないといけない。今日は7時半を少し過ぎて駅に着いた。すでにホームは人でいっぱいだ。とても緊急事態宣言下とは思えない通常の光景だ。
何人かの知事が訴えているようにロックダウン的なことをすればいいのだ。国民に支給して、一切の業務を停止して、家にいるようにすればいいのである。その方が僕も大っぴらに休むことができるのでありがたいくらいだ。
ワクチンが効果的なのは認めるけれど、ワクチンだけでなんとかなるという話でもないのだ。政府はそれ以上のことをしていかなければならないのである。
それからファクターXを想定していた人たちも意見を撤回せざるを得ないだろう。僕はそんなものがあるとは思っていない。日本の感染者数が低いのは、検査数が足りていないことと、日本人の生活習慣によるものだと思っている。条件が等しいなら日本人も諸外国の人たちと同じように感染するはずである。僕たちは一時期のインドを見てひどい状況だと感じていたけれど、数の上では日本もそれに匹敵しているのである。インドで起きたことと同じことが日本でも起きているのだ。
日本が母性社会だと一部の心理学者が言っていたけれど、僕はそうは思わない。母性的なところもあるけれど、日本はけっこう父性社会である。父性社会というのは、要するに、権威主義的社会ということである。
単純化して言うと、母性とは人間はみな等しいと理解するのであり、父性は人間を区別する。母親にとって自分の生んだ子はみな等しいのであるが、父親にとっては優れている子が特別なのだ。この観点に立っても、僕たちはすでに日本が父性的であることを見てきた。
例えば五輪選手は特別だとか、飲食店だけ補償されているとか、要請を守らない店には制裁を加えるとか、そういう議論を見てきたけれど、これらはすべて父性的なのだ。格差を生み出すのもこうした父性なのだ。確かに、一度に全員に対してできないということであれば、順番を決めることもやむ得ないだろう。優先順位はあるとしても、全員にその権利なり恩恵なりが行き渡るのであれば、それはそれでいいだろう。もっとも、そこでさえ覚束なくなっている感じが僕はしているのだが。つまり、優先順位を設けても、順番の後の人たちまで行き渡らないような気がしているのだ。
若者だけが標的にされているように感じることがある。僕は若者ではないけれど、確かにそう感じてしまう時がある。若者が活動的なので、どうしても目についてしまうということもあるだろう。まあ、それと同じくらい、僕の世代、中年世代のことも言われていることがある。路上で宴会やっているのは若者に多いかもしれないけれど、こっそり宴会を開いたりするのは中年世代に多いかもしれない。話が逸れまくっているな。要は、ある層の人たちが特に悪いとかいう発想も父性原理なのだ。本当はどの層でも同じことが言われなければならないはずである(これは母性原理に当たると思う)。
母性原理は平等とか公平を求める。父性原理は問題や原因を追及したり、あるいは区別や制限を課す。両方の原理が必要であるのだが、一方だけが過剰ということであれば、やはりそれは困ったことになる。父性が過剰であるなら、母性をもう少し伸ばしていかなければならないのではないか。人類みな兄弟(これは母性原理である)、この観点からやり直さなければならないのではないだろうか。日本は母性欠如社会であると僕は考えている。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)