8月2日(金):2割増し理論
今日は朝から忙しい。
ただし、忙しいのは夕方までで、それ以後の時間は空きである。
忙しいのは、あるクライアントにあることを説明するのに困難があり、それを考えるためである。どういう形でその人に説明すればいいかで、この数日、頭を悩ませてきた。急遽、手書きのレジメを作成して、それをコピーしてクライアントに手渡し、一緒にそれを見ながら話を進めていくことに決めた。そのレジメを朝から書いている。
午前のクライアントを終えて、昼休みにもそれを書く。そんなこんなで、夕方までぶっ続けで仕事なり作業なりをしたことになる。
夕方になると、さすがに腹が減り、ちょっとだけ食べに出る。
戻ってくると留守電のランプが点滅しておる。そういえば午後の面接中にも一度電話が鳴ったな。外食せずに、室内で食事をすればよかったと幾分後悔する。
少しだけ休憩する。それから留守電の人に電話をかける。こういう電話は妙に緊張してしまう。明日の予約が入る。
その後、買い物に行く。まずは銀行にお金を入れておいて、それから某古書店に足を運ぶ。先日、目をつけておいた本を買おうと思い立った。店がまだ開いていれば買う、閉まっているようならそのまま帰宅。そう決めた。
店は開いていた。2000ページほど買う。最近、冊数ではなくページ数で勘定するようになった。大小7冊の本を購入したのだけれど、その総ページ数が2000ページくらいだ。一日100ページずつ読めば20日で読み終える。
早速、なぜか高槻に戻って、喫茶店に入って読み始める。初日のノルマ100ページを達成する。それから帰宅。帰宅時の電車内でも読んでいたので、ノルマ以上の達成である。
ノルマとはこういうものだ。自分で設定して、自分で達成するものだ。他人から押し付けられるものではない。郵便局のことが問題になっているけれど、ああいうのはノルマとは言わないのだ。数字遊びでしかない。
僕は「2割増し」理論というのを持っている。なぜ2割かというと、大して根拠はない。ただ、おおよその目安である。
どういうことか。例えば、一日10万円くらい売り上げのあるお店があるとしよう。多少は上下することはあっても、平均するとそれくらいだとしよう。コンスタントに10万円の売り上げを出しているとしよう。このお店は努力すると12万円の売り上げを達成することが可能である。しかし、15万円は難しい。これが「2割理論」である。
今度はそのお店がコンスタントに12万円の売り上げを出すようになったとしよう。このお店は、努力すれば2割増しの14,4万円の売り上げを出すことは可能である。でも、18万円はムリだ。
最初は10万円だった。それを12万円に伸ばすことができた。でも、12万円が定着して、コンスタントに維持できて、初めて次の14,4万円が目指せるのだ。
どの業種であれ、どんなお店であれ、完全ではないので、改善の余地が必ずある。そこを改善するだけでも業績は伸びると僕は思う。それが2割くらいの伸びだと想定しているのだ。
もし、2割増しをすっ飛ばしていきなり5割増しを目指そうとすれば、その場合、もっと他のこと、違ったことを取り入れなければムリである。僕はそう考えている。改善点を改善するだけでは追い付かないと思う。
他のこと、違ったことと言うのは、要するに、事業拡大である。多角経営していくということだ。例を挙げてもいいのだけれど、書くのが面倒になってきた。それに、「そんなこと当たり前だ。誰もが知っていることだ」と思われるだろうし、僕にはその程度の話しかできない。
さて、ノルマには罰が付き従っていることが多い。それが達成できなかったら何らかのペナルティが課せられるということだ。ペナルティならまだしも、それが暴言や過剰な叱責であることもある。
もともとノルマなんて達成しなくてもいいのだ。あくまでも一つの到達点であり、目標でしかない。目標を達成できなくても、当人には痛くも痒くもないことである。それで減給されることがあるとしても、基本給はいただけるのだから、営業マンにはなんのリスクもないのである。
大声で上司から暴言を吐かれるなら耳栓でもしておけばいい。その上司もまた上の上司から同じことをされているのだ。ただ上から下へ伝達されているに過ぎない。郵便局はそうだと僕は信じている。主体を喪失しているように僕は思う。
郵便局の件は、結局、郵政民営化の失敗である。親元から切り離された郵便局は、無力な赤子と同じような状態になっていたのではないだろうか。
ノルマの数字を上げれば、実績がついてくると考えるのは極めて幼児的である。魔術的思考である。そして、数字でけ釣り上げて、下っ端の人間を締め上げる、それで何とかなると考えるのも幼児的である。複数のクライアントから郵便局のことは伺っているのだけれど、全員が無力なのだ。僕はそんなふうに思う。ただノルマを上げ、ノルマを厳しくする、それは無力な経営者のやることである。
もう一つだけ付け加えておこう。罰というものは心理学的に言うとある効果がある。学習の消去である。かなり単純化した表現をしているけれど、基本的に罰は学習の消去に効果的とされる。
しかしである、次の点を見落としていはいけないのである。学習を罰によって消去するのは再学習に道を譲るためなのである。従って、罰だけ施して再学習の機会を与えないというのは間違っているということになる。
さらに言えば、罰によって最初の学習を消去して再学習を達成していく場合、罰による学習消去の時間よりも、再学習の方により時間をかけなければならないのである。罰は、その内容や与え方に応じて効果が変わるのであるが、消去を短縮させようとすれば可能なのである。しかし、再学習はその個体にとっては新たなことの学習になるわけだから、時間がより必要とされるのである。
虐待者や体罰者が間違えているのはそこである。罰だけ与えるのである。そして相手の再学習には付き合わないのである。相手が再学習する機会を得られないのであれば、その罰は繰り返されることになり、且つ、その反復が正当化されてしまうのである。しかし、虐待者や体罰者たちの方が間違っているのである。
本当の指導者は罰も活用する。ただ、罰よりも再学習の方を重視し、その再学習の方を評価するものではないかと僕は思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)