8月2日(土):ウンザリだ!
昨日と今日は、普段の土日より少し余裕がある。こういう時にサイト作業もこなそうと思い、パソコンを持参する。
午後、問い合わせの電話が入る。要件は「女性のカウンセラーはいるか」ということだった。時々、こういう問い合わせが入る。僕のサイトを見れば、僕しかいないということが分かるのだけれど、恐らくサイトを見て電話されたのではないのだろう。
個人的には、あまり専門家の男女差はないと思うのだけれど、そこに拘る人もある。それはその人の価値観や不安も関係しているだろうから、それはそれでいい。
そういう問い合わせを受けると、私は正直に申し上げる。ここには私しかいませんと。嘘を言っても何にもならないからだ。
すると、その人は他のカウンセリングセンターを知らないかと尋ねてきます。私は他所のことなど興味がないので、全く知りませんとお答えするしかない。
しばらくして、その人からもう一度電話がかかってきた。某カウンセリング機関のことを尋ねてきた。僕はそこを知らない。すると、その人は私にそこを調べてほしいと要求してきた。
呆れてしまったのと腹立たしさと、そんなふうにしか利用されない僕自身の情けなさとが入り混じった異様な感情が渦巻く。
自分で調べてはどうですか、そういうのを調べてくれる人とか手段がないのですかと私は尋ねる。相手はないと言う。ネットで調べたら簡単なのだけれど、僕のパソコンは今作業中だ。
僕はその作業を一時中断して、パソコンを使えるようにし、検索してあげた。親切心からではない。その人と早く縁を切りたいと思っていたからだ。そうして某所の連絡先を教えて、即座に電話を切った。付き合いきれんわと思う。
相手はさらにその某所について、そこには臨床心理士はいるだろうかなどと尋ねてくる。僕は知りませんとしか答えようがない。他所のこと、それも僕の未知の他所のことをあれこれ教える気はしないし、そういう情報をいっさい持ち合わせていない。ご自分で問い合わせ、質問されたらよろしいでしょう、としか言いようがない。
結局、僕は利用されているだけなのだ。そして、その人が自分でしなければならないことを僕に代行させようとしているのだ、当人が意識しているかどうかは別として、その人のやっていることを見ると、そういうことになる。
向こうはどう思ったか知らないけれど、僕自身はそれほど不親切な人間ではないと自覚している。現に、今朝も道を尋ねられて婦人に教えてあげたりもした。ただ、これはそれとは話が異なるのだ。
言い換えれば、野菜を買いたいのだけれど、お宅以外の八百屋を知りませんかと八百屋の主人に尋ねるのと同じだ。けっこう、失礼ではないか。
その人には、少しでも自分を手伝ってくれるような人がいないらしい。分かる気もする。そういうことを他にもしているのだろう。だから人が去り、孤立していくしかないのだろう。某所のカウンセリング機関を受けて、私の悪口の一つでも言うかもしれない。決して感謝なんかできない人だろう。そして、きっと、そこでも上手くいかないという経験をされることだろう。
どういう問題を抱えている人が、そういうことをできるのか、大体のことは察しがつく。けれども、ここではそれを述べない。ただ、見ず知らずの他人から、僕は単に利用されただけだという煮え切らない感じは後々まで僕の中で残っていた。作業を中断して、検索してあげたけれど、そうした背景は無視されて、あそこは対応がひどかったなどと後から喚き立てる人かもしれないな。ウンザリだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
僕は僕なりに問い合わせには答えるようにしている。無駄とは知りながらもそれをする。この無駄を省くために<Q&A>コーナーを設けているのだ。一部の質問は質問者の「症状」、もしくはその延長にあるものだと僕は考えている。何が問われているかよりも、何がその問いを生み出しているかの方が重要である。
(平成29年2月)