8月15日:唯我独断的読書評~「呪われた絵」 

8月15日(土):唯我独断的読書評~「呪われた絵」 

 

『呪われた絵(Translation)』(1976)スティーブン・マーロウ著 角川書店 

 

 本当はすごく怖がりなくせに、ホラー小説にハマった時期がある。僕が若い頃だった。この本はその頃に買って読んだものだ。先日、実家の本箱を漁っていると出てきたのだが、処分されずに残してある理由が思い出せず、読んでみることにした。 

 

 フランスの街ブール・サン・マルタンに父親と一緒に旅行中の16歳のメロディは、アメリカへの帰国前にジプシーの老女ビビ・ティタより古いノートを渡される。それはこの町に生まれた17世紀の画家ジャン=バプチスト・コロンビーヌの手記だった。 

 アメリカへ帰国したメロディ。彼女の住むマーチンズバーグはブール・サン・マルタンと姉妹都市で、折しもブール・サン・マルタン月間が開催されようとしていた。フランスの姉妹都市の美術品がマーチングバーグに運ばれようとしていた。 

 道中、輸送車が事故に遭う。散乱した美術品の中から、メロディはコロンビーヌの失われた絵画を拾う。この時から、メロディの周りに不可思議なことが起きはじめる。 

 ここまでがこの物語の前奏部分である。以後、絵の変容、街の人たちの変容、コロンビーヌの手記を三本柱に物語が同時進行する。 

 絵の変容と記したが、ドリアン・グレイのように絵画そのものが変わるということではない。この絵は二重に描かれているのだ。つまり、下の絵の上に別の絵が塗り重ねられていて、徐々に上の絵の具がはげていって、下の絵が現れていくということである。 

 そして、ここが上手いと感心したのだけど、コロンビーヌの手記はその絵画が描かれていく過程を記しているのだ。17世紀にその絵が描かれていく過程と、20世紀にその絵が現れる過程が重なるわけだ。 

 町の人たちの変容というのは、これまで事件らしい事件のなかった平和な町で、人々が狂気に駆り立てられたかのように犯罪を犯していくということである。 

 そして、コロンビーヌの手記であるが、彼は異教徒として迫害され、痛ましい体験をする。放浪のさなか、ジプシーの魔術師と出会い、そこで絵に呪いをかける。この凄惨な一連の物語が綴られる。 

 この三本柱はそれぞれ独立して進行するのだけど、徐々に相互にリンクし合う。メロディと父親が真相を知った時には、彼らにもすでに危険が迫っていた。そのクライマックスはけっこうハラハラ、ドキドキものだった。 

 

 さて、本書は絶版になっていると思う。本屋さんで見かけないのは確かである。興味のある方は古本屋さんで探してもらうしかない。もし、読む機会があれば、名前に注意を払って読むことをお勧めする。 

 さまざまな人の名前や地名が出てくる。メインの登場人物から、サブメインの人たち、さらに周辺の人たちまで、いろんな名前に遭遇するが、こうした名前をよく銘記して読むと、この本はもっと楽しめると思う。 

 後になって、そうだったのかと気づいたのだけれど、最初から名前ということが伏線として貼られていたのだ。11ページ(物語開始から数えて4ページ目)に、すでに名前に関してのやりとりがある。さらに182ページでは、名前に関して魔術師がコロンビーヌに語っている部分がある。名前は物の縮小されたイメージであり、名前を物の代わりに呪術で用いることもあり、物の名前は物自体なのだと説明されている。17世紀のラムゼーは20世紀のラムゼーとは別人であるが、同じイメージ、同じものを有しているということである。 

 

 さて、本書を処分せずに残しておいた理由は、メロディがコロンビーヌの手記の中の人物のように痩せ細っていくなかで、医師が拒食症を疑う場面があるのだけど、どうやらその辺りにあったように思い出した。今回、読み直して、その部分よりも、呪術や黒魔術に関する部分のために残しておこうという気になった。 

 およそ40年前の小説で、時代の違いはあるけれど、それなりに面白い。「怖さ」という観点に立つと、現在のホラー小説の方がはるかに怖いだろうし、そういうのに慣れている人からすれば物足りない作品に映るかもしれない。ドギツイ場面こそないけれど、平穏な町の住民が徐々に常軌を逸していく過程はジワジワと怖さが込み上がってくる感じである。 

 僕の独断的評価では3つ星半。物語は面白いのだけれど、どうも同一視できるような、感情移入できるような登場人物がいなくて、読んでいていささか身が入らなかったのが難点。もちろん、僕の個人的な体験である。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

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