8月14日:唯我独断的読書評~「比較文化論の試み」 

8月14日(金):唯我独断的読書評~「比較文化論の試み」 

 

 『比較文化論の試み』(山本七平 著)講談社学術文庫 

 

 ツーの発作が出て、今日は休もうと決めていたが、家の中でじっとしているのに耐えられなくなり、歩きに出る。足は痛むがゆっくりなら歩けそうだと思ったからだ。 

 河原町の方に出る。古書店に入って、今日のお供してくれる本を探す。プレイボーイなら女の子をナンパするところだが、僕の場合は本だ。そこで本書を見つける。100ページ足らずの薄い本で、歩く合間の休憩に読んで行けば、今日中に読み終えるだろうと思った。 

 しばらく歩いて、カフェに入る。早速、読み始める。読み始めるや、これが面白くて、一気に読み通してしまった。ウォーキングもそっちのけになった。今日一日のお供にと思っていたのが、結局、お茶だけ付き合ってくれた女の子のようになってしまった。 

 

 第1章で、日本人には同情心がないということを著者は語る。これは独りよがりになってしまうということで、相手と自分の混同があるためだと言う。そして、自分がなぜそう考えるのかという意識が欠如しているためである。考え方を歴史的に把握しなおさないといけないということである。また、この傾向は交渉が不出来であることにつながる。自分の考え方の再把握が必要と結論する。 

 第2章にて、民族にはそれぞれの感じ方があるが、日本人はその感じ方の違いを無視してしまうと指摘する。また、日本人は日本人で感じ方があるのだが、その感じについて理由を考えないと言う。 

 ここまでは日本人論といった観が強いが、3章以後、比較文化っぽさが増してくる。いくつもの例やテーマが取り上げられるが、僕が興味を持ったものだけを記す。 

 

 外国では諸民族が入り乱れ、文化の出入りが激しかったが、日本はそうではなかったので異文化ショックを受けることが少なかった。文化ショックは自分たちが無意識的に有している前提について意識するようになり、それを再把握することになるのだが、日本人はその機会が少なかった。 

 

 また、輪廻転生の思想は、人間を個人として捉えた進歩的な思想であったが、これは歴史を排除する思想でもあった。この思想は歴史感覚を育むことに貢献しなかったということであるようだ。一方、西洋の神は歴史を支配する神であった。だから西洋は歴史感覚に馴染みがあるので、精神分析のような個人史を再構成するような作業が受け入れられやすかったのだろうと僕は思った。 

 

 多数決原理に関することも面白かった。多数決の基本原理は「個人の判断」の集約ということである。この観点からすると、お上の意向や決定に逆らえないような状況での多数決はまるで意味がないということになる。 

 

 臨在感というのは、モノの背後に臨在する何かを感じるということである。外国では場所にそれがある。聖地とか約束の地とか、その場所に臨在感がある。日本では、場所ではなく、それを家の中に入れてしまうという指摘はなるほどと思った。それは具体的には神棚や仏壇である。今ではテレビ(執筆当時の話で、今ではパソコンとかスマフォがそれに当たるだろう)が取って代わっていると言う。 

(それに関しては、僕は個人的に納得できない。僕個人は、臨在感という観点で言うなら、モノに対するよりも場所に対してそれを感じる。定期的に訪れるお寺、毎月参拝する神社が僕にはある。現実に現地に行きたくなるのだ。そこに引き寄せられる感じがするのだ。一方、これも臨在感になるのだろう。近頃、よく見かけるのだが、「立小便禁止」と書く代わりに鳥居の絵を置いてあったりする。これは鳥居の臨在感によって、立小便を思いとどまらせる効果を狙ったものだということになる。僕にはそれは効果がない。その鳥居に向かって立小便したこともある。そんなモノに臨在感を僕は感じないようだ) 

 

 最終章にて、対立概念分立概念が述べられる。平たく言えば、西洋などの外国には対立概念があるが、日本にはなく、その代わりに、日本には分立概念があるということである。 

 一つの対象に対立するものを見るのが対立概念ということである。日本は、いわば二元論であり、善玉と悪玉という分け方をするというのだ。一人の人間に善と悪の対立を見る(対立)のではなく、こちらの人間を善と見做し、他方の人間を悪とみなす(分立)といった分け方をするというわけだ。 

 これはひどく頷ける。外国の臨床事例を読んでいると、スプリッティングの現れ方が違うなという感じがしていた。一人の臨床家が、一人のクライアントによって良い対象に見られたり、悪い対象に見られたりする場面がよく現れる。僕の印象では、日本ではその現象がそれほど顕著に見られないように思う。 

 日本では、このスプリッティングは、臨床家は良いけど、家族は悪いといった形で現れることが多いように思う。これは対立ではなく分立なのだ。時には、臨床家のA先生はいいけど、B先生はダメとか、先生はいいけどスタッフがダメとか、そんな分割がなされることさえある。外国の事例でもこういうのは見られるとは言え、この種の分割は日本の方がポピュラーなんじゃないかという気がする。 

 

 最後に、著者の「文化観」に僕は共感する。この本を選んだ理由がそれである。背表紙の解説を少し引用しよう。「経済的破綻に更生はありえても、文化的破綻はその民族の自滅につながる。文化的生存の道は、自らの文化を、他文化と相対化することによって再把握して、そこから新しい文化を築くことしかない」本当に、今の日本に一番大事な観点ではないだろうか。 

 

 さて、本書の独断的評価であるが、僕は4つ星半を付けたい。十分面白いし、為になることも多いし、知識も増える。ただ、この倍くらいのページ数があっても良かったと思う。もっといろんなテーマや例で著者の見解を読んでみたいという気持ちになったのである。そうすれば、躊躇することなく、五つ星を進呈していただろう。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

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