7月5日:飲み屋で出会った人たち

7月5日(土):飲み屋で出会った人たち

 ブログを書くのは久しぶりだ。これまでに何本か書いてはいるのだけれど、自分で読み返してみてもつくづくつまらなく思い、公開しないままボツにした。
 6月から、僕はこれまでの資料や記録のデジタル化を開始した。その目的は室内からモノを減らそうというものだが、着手してみて、着手するのではなかったといささか後悔している。膨大な量なのだ。それを通常の業務の合間を縫ってしなければならない。遅々として進まない。まあ、それは気長にやっていこう。

(号泣議員)
 一昨日から話題になっているそうだ。西宮の議員さんが会見で号泣したそうだ。テレビで見たけれど、あの号泣する姿を見て、どこか「演技性」で「回避性」の傾向を感じたのは僕だけだろうか。
 しかし、城崎温泉はそれだけいい所なのかね。それともいい女性がいるのだろうか。号泣議員さんは年に160回以上当地に訪れているそうだ。何しに行っているのか分からないけれど、それだけ足繁く通うところを見ると、よっぽどいいものがあるに違いないと思ってしまう。
 政治家ってのはとかくお金がかかる仕事なのだそうだ。だから給料が一般企業の従業員の何倍もの額を受け取っているとしても、僕はそれにとやかく言うつもりはない。
 ただ、不正をやっても即座に解雇されないというのがもどかしい。不正を働いた議員であっても、一応、有権者の票を得て当選したのだから、おいそれと首を切るわけにもいかないのだろうという話を耳にした。確かに理屈としては通っている感じがする。でも一方で、その理屈は少し変じゃないかと僕は感じている。

(政治)
 僕はこのブログでは政治とか時事ネタを取り上げないようにしてきた。まあ、気が緩んできたというのか、少々のモノを言っても大丈夫だろうという安心感からか、最近は遠慮躊躇することなく取り上げるようになった。
 肝心な点は、政治や政治家ではなく、政治を見る僕たちの目だと思うようになっている。政治家は国家を維持するために働くけれど、それは僕たち個人個人の生活と必ずしも一致しているとは言えないものだ。
 ガブリエル・マルセルの言葉を僕は思い出す。「存在のまさしく深奥から襲うてくる不安を鎮めるためには、あれこれの社会的もしくは制度的な条件の調整だけで十分だと思い込む錯覚以上に危険な錯覚は、おそらく他にないだろう」(『人間~それ自らに背くもの』ガブリエル・マルセル著 創文社 p40)
 昨日、号泣議員の会見VTRを見て、マルセルに賛意を表したい気持ちになった。政治家云々ではなく、僕たちが政治や政治家に対して有している錯覚こそ、僕たちが気づかなければならないことではないかと思う。

(Sさん)
 酒は、相変わらず時々飲みに行く。顔見知りの人がいる店でしか今は飲まない。
 飲み屋に入って、僕は自分が普通に好かれる人間であるかどうかを試したいのだ。
 Sさんは若い女性で、バーで働いている。僕のことを、職種は知らないけれど、事務所を構えている「社長さん」だと思っているようだ。
 昨夜も会った。彼女の「社長さん」という誤解を解くために、僕は事務所は一人でやっているのだよと教えてあげた。彼女は「人を雇わないのか」と訊く。僕は「とても従業員に給料を払えないのでね」と言い、さらに、「もし雇うとなれば、僕にできないことをしてくれる人でなければだめだ。僕にできることを単に手伝うだけの人は欲しくない」と、ついつい酔いに任せて本音を漏らしてしまった。
 Sさん、「じゃあ、どういうことができればいいの」と尋ねてくる。僕はいくつかの例を出した。それを聴いたSさん、「じゃあ、わたし、それを習いに行こうかな」と言う。
 営業トークなのか、それとも本当に僕と仕事がしたいと思っているのか、彼女の真意は不明だけれど、「もっと他にいい就職口があるはずだから、それを探して」と言ってしまった。話題も良くなかったし、僕も無神経にズケズケ言い過ぎたかなと今は反省している。
 
(酒に強くなりたい男性)
 Sさんとの間でしこりを残しながら、僕は店を出た。何となくすっきりしない。それで、つい二軒目を梯子してしまった。
 そこのバーではカウンターに若い男性が数人いた。同じカウンターに座っていて、僕は何気なく彼らを見ている。一人、罰ゲームを受けている人がいた。その彼が「酒に強くなりたい」と漏らした。僕は「そんなに酒が強くなりたいのかね」と声をかけた。酒なんて強くない方が絶対にいいのだが。罰ゲームを受けた彼が可哀そうになってきて、僕は彼に一杯おごった。
 彼からすると、酒に弱いばかりに罰ゲームを受けることになったのだ、だから強くなりたいということなのだろう。でも、悪いのはその罰ゲームの方で、酒に弱い彼に罪があるわけではない。ああいう罰ゲームは周りにいる人を不快にするものだ。
 僕も経験があるのだけれど、酒に強いということは、若いうちは自慢になる。僕は自分では酒に強いとは思わないのだが、周囲の人に言わせると強いらしい。
 でも、年を重ねるにつれて、だんだんお酒も飲めなくなってくる。ジンやウォッカをストレートで飲んでいた僕も、今ではトニック割りでないと飲まなくなっている。普通にお酒を飲める人と大差はないのだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 酒なんか、なまじ強かったりすると、ついつい飲んでしまうものだし、他人と勝負してしまったりするものだ。何事もそうだ。中途半端に強いと無鉄砲なことをしてしまうものだ。本当に強い人は無茶なことはしないものだ。もちろん、弱い人もそういうことはしないのだ。
(平成29年1月)

 

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