7月27日:宿命としての生 

7月27日(木):宿命としての生 

 

 徹夜が続いていた。昨晩(26日)は休めるはずだったが、コンビニバイトの方でシフトの交代を引き受けたので勤務することになった。これで深夜勤務が13日連続になりそうだ。僕はそれで構わない。働いた分は給料になるのだから。働く方がいい。 

 しかし、昨晩の夜勤はきつかった。この二日はまともに寝れていない。雑魚寝やうたた寝程度のものを重ねてきた。トータルすると睡眠時間は足りているはずである。ただ、やはり布団の上で寝たい気持ちはある。 

 それはさておき、夏になると深夜徘徊する連中が多くなる。昔も今もそこは変わらないのだけれど、コンビニの駐車場にたむろして何時間もおる。昨晩なんかは蒸し暑くて、かなりの熱帯夜だったのに、熱い中、よくあんなことができるものだ。 

 そして、案の定、警察から職務質問されておる。僕が店頭に出た時にはすでに警察が来ていて、若い連中がなにやら質疑をを受けていた。どっちもどっちだ。やるなら他所でやってくれ。僕には僕で仕事がある。店頭の掃除もしたいのに、彼らのおかげで後回しだ。なお悪いことに、一組が去ると次の一組がたむろし始めるという始末だ。 

 傍で見ていて思うのは、コンビニ駐車場でたむろしている若い連中にとっては、警察の職務質問も所詮は「お遊び」なのだ。レジャーというか、ただのイベントなのだ。退屈を紛らしてくれるイベントに過ぎない。そんな風にしか見えんのだ。 

 日本も終わりだな。これからの将来のある若者たちがあそこまで退屈していて、コンビニ駐車場で人生の貴重な時間をダラダラ蕩尽して、警察の介入や事件でさえ退屈しのぎの刺激でしかない。何もかも無意味なんだろうな。 

 カウンセリングが廃れるのも当然だ。ああいう連中はまず自己が問題視されることはない。目の前で退屈を忘れさせてくれる何かが展開すればそれでいいのだから。それを一生続けるのだろうな。本当はそれは幼児的な在り方なのである。あるいは、ハイデガー風に言えば、群衆の在り方である。実存に目覚めることのない生き方である。 

 

 深夜勤務でそんなことを経て、一杯ひっかけて就眠とするも、熱くて眠れない。それで起きてブログを書き残そうと思い立った。今夜も深夜勤務を控えている。それまでにもう少しは寝ておきたい。あと5時間くらいしかない。準備に一時間くらい要するとして、4時間か。そのうち3時間くらいは寝ておきたい。 

 最近はそういう考え方をする。次の何かまでにあと何時間という見方をするようになっている。残されている時間の方を意識しているという感じだ。それが僕の今の生き方になっている。 

 人生においても同じだ。僕に残されている時間がどれほどあるだろうか。自分で思っているよりもはるかに短いかもしれない。まだあると過信してもいけない。それはすぐそこにあるという危機感を常に持っていた方がいいかもしれない。今見ている光景も明日には見れなくなるかもしれない。それくらいの気持ちでいた方がいい。人生の終わりは突然来ることの方が多いと思う。ある日いきなり生を終える確率の方が高いと僕は思っている。死の準備をして、緩やかに死を迎えることのできる人は幸せだ。そういう人の方が少ないと僕は思っている。 

 ともあれ、今は生命が僕を捕まえて離さない。嫌になるような生活であろうと、腐った世の中であろうと、僕はそこを生きなければならない。生は個人の宿命だと思う。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

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