7月25日:「世話役女性の夢」

7月25日(水):「世話役女性の夢」

 夢を見た。久しぶりに未知の女性が登場したので、書き残すことにしよう。

<夢>「世話役女性の夢」

 僕は通りを歩いていた。繁華街とまではいかないけど、簡素な住宅街とかローカルな町並みといった感じだった。

 道を歩いていると、その道がとある飲み屋につながっている。道はその飲み屋を通過して続いている。なんとなく入りにくい思いがしたが、ここを通らないと前に進めないので、僕は飲み屋に入っていく。客たちは何も言わないけど、僕に視線を向けているようで、居心地が悪い思いがあった。

 通り抜けると、さらに道が続いていたが、この辺りはあまり面白そうなものがないなと思い始めている。すると、細い路地の脇道があって、その路地の奥に墓地があり、その向こうに大きな神社が見える。こんな大きな神社がどうしてこんな路地の奥にあるのか不思議に思った。僕はそっちの方に行ってみることにした。

 その後(場面が変わったのか)、僕はある一団に参加している。僕は新参者だった。学校のようでもあり、研修会場のようでもあった。一人の女性が僕の世話役にあてがわれた。僕たちはディスカッションの場に加わり、いろんな注意事項を彼女が僕に教えてくれた。

 それが終わると、近くに海があるそうなので、僕は行ってみたくなった。彼女はその近くにいる知人を訪ねるというので、僕は一人で波打ち際を歩いていた。

 海は荒れてはいなかったものの、時折、大きな波が来て、僕の足に達する。そして、堤防を越えて、その向こうの道路まで海水が流れる。婦警のような人が僕に注意するので、僕は柵を超えて、道路側に避難する。

 そこの道路から、僕の世話役の女性が見える。何人かの人と立ち話をしていた。僕は彼女の名前を呼んだ(なぜかかつての女性友達の名前だった)。彼女は僕に気づき、僕の方に手を振ってくる。僕は彼女のところに行く、彼女は他の人たちと別れていた。

 僕たちは彼女の運転する車に乗る。一団の他のメンバーには好きになれない人や苦手な人もいたが、彼女のことは「いい」と思った。そういう話も彼女にする。

 車中では、また、彼女は明日は休みだから、僕一人でやるようにと言った。そうか、彼女は明日はいないのだと寂しい気持ちに襲われた。

 それから、僕は彼女から教えてもらったことをまとめたいから、それに付き合ってほしいと、間違っているところがないかどうか確認してほしいと、彼女に頼んだ。彼女は構わないと答えた。

(連想と感想)

歩くこと。最近、特に意識している。足を動かさなければならないからだ。

 道を歩く。どこかにたどり着く目的があるはずだけど、夢ではそれがなく、散策している感じだった。

 飲み屋を通過する。最近、飲み友達に背を向けている。あまり付き合わないようにしている。酒は飲むけど、少し控えめになっている。

 墓地の奥に神社が見える。酒飲みを通過すると、もっと宗教的な事柄に関心を持つようになるかもしれない。神社仏閣めぐりなんかもやってみたいと最近は思うし、以前から興味がなかったわけではない。夢の中の神社がやたらと大きかったのは、僕の中で意外と大きな位置を占めていることを指しているのかもしれない。

 一団に所属すること。僕はどこにも所属していない。近頃、会社に所属している人たちを羨ましいと感じることが多くなった。どこにも所属せずに自分を維持していくことに、疲れを感じている。

 世話役の女性。母親に類似する存在だ。僕はこの女性を全面的に信用している感じがあった。これこそ幼児が母親に向ける感情だと改めて思う。

 海を見る。時々、その欲求に襲われる。海を眺めていたいと思うことがある。でも、本当は海が怖いのだ。僕にとって、そこは溺れる場所なのだ。遠くからは眺めていたいけど、中には踏み込みたくない世界だ。

 波が防波堤を超える。「海」からのエネルギーが僕の足元を掬う危険性がある。これはあまり「海」に近寄りすぎてはいけないことを示してくれているようだ。「海」とは、僕のイメージでは、「無意識」のことだ。あまり女性を連想することはない。

 婦警が注意する。不思議なことに、僕に注意をしてくれたのは未知の女性ではなく、婦警さんだった。僕はその注意に従う。つまり、危険から遠ざかる。そのためには「婦警」によって象徴される存在が必要なのかもしれない、

 彼女の名前を呼ぶ。これも不思議なことにかつての女性友達の名前だった。この女性友達とは、結果的に上手くいかなかったけど、多くのことを僕にもたらしてくれた。生を進展させてくれた女性でもあった。こういう女性が今の僕にはいないのだ。求めてはいるけど、なかなかそういう人に出会えないと感じている。

 彼女のことを「いい」と言う。つまり、肯定的な感情を彼女に対して持っており、彼女のことをかなり高く評価しているということだ。僕はそれを正直に打ち明ける。これに対して、彼女がどういう反応をしたのかは覚えていない。

 明日は自分でやるようにと彼女が言う。彼女が明日は休みで居ないから、自分でやるようにと僕に言う場面だ。言い換えると、短期間ではあれ、僕は彼女と別れることを意味する場面である。不思議と僕はそれを受け入れている。

 確認に付き合う。別れを受け入れると同時に、その後の約束を僕は取り付けているわけだ。これは僕が現実にすることでもある。明日は会えないなら、明日以後のことを何か一つでも約束していないと不安に襲われるわけだ。希望を持ちたいということである。僕が見捨てられ感に対処する一つの方策でもある。

 人生を前に進めよう、生をもっと展開していこう、そういう気持ちは強いけど、現実にはなかなか思うように進展せず、そればかりか、僕一人の力では無理だと感じてしまうことが多くなった。前日(7月24日火曜日)も自分の生き方や人生について、振り返ったり、改善を試みようという計画も立ててみたりした。今の自分の生になんら満足できなくなっている。

 そんな状況で見た夢ということだ。飲み屋を通過するということは、酒飲み時代を終えることである。道はその時代の向こう側を示してくれる。そこには面白そうなものは何もないかもしれないが、墓地(死)があり、神社(宗教的感情)が見えてくる。

 さらに、酒飲み時代を通過したところでは、一団への所属がある。社会的に生きるということだと思う。社会的に生きる中で、僕は僕を指導してくれるような女性をあてがわれていることになる。

 その後のことは、危険な海(無意識)にあまり近寄りすぎてはいけないことや、自分を導いてくれそうな女性の不在に耐えることなどが示されているように感じている。

 こうした解釈が正しいかどうかはどうでもよい。夢の解釈とか意味というものは、一般の人が考えているようなものではない。その意味や解釈が正しいかどうかは二の次のことであって、そこから何か僕自身の指針となるようなものが得られるかどうかである。僕にとってはそっちの方が重要なことである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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