7月20日(日):耳学問
(「耳学問」のススメ)
人中に出ると、僕は「耳学問」するように努める。僕の言う「耳学問」とは次のようなものである。身近にいる人たちの会話を聞くということだ。
ただし、定義は簡単でも、実践するには熟練の技が要る。
まず、周りの人の会話を聞いていても、聞いていると感づかれてはいけない。あくまでも聞いてない素振りをし続け、無関心な態度でいなくてはならない。
次に、その会話に参加してはいけない。もし、そこで参加してしまうと、「今の話、聞かれていたんだ」などとその人たちに思わせ、彼らを警戒させてしまうからだ。聞いてない振り、無関心な態度を押し通していかなければならない。
彼らが何について会話しているのか聞くだけでは、受動的な「耳学問」である。僕の「耳学問」の真骨頂にしてもっとも技術を要する部分は、彼らの話がどこに向かうかを突き止めることである。そして、なぜその方向に会話が向かうのか、その推進役はどちらかなどを考察する。
もしくは、途中で話題が変換した場合、誰が、どのタイミングで、何に話題を移したかということに着目する。そして、なぜそこでその話題が打ち切られたか、そして次の話題は何によって導かれたかを現象学的に考察する。
僕のブログやサイト原稿の多くは、こうした「耳学問」によって得たものだ。上記のことをしっかり鍛錬すれば、君も「耳学問」の達人になれる。まあ、そんなものになりたいとは思わないかもしれないな。
悲しいことに、電車に乗っても、カフェに行っても、なかなか「耳学問」の実践ができなくなっている。「耳学問」しようと思っても、中国語で会話していたり、その他の言語だったりするし、何よりも、会話よりもスマフォで何やらやってる人の方が圧倒的に多いためだ。このままでは「耳学問」の世界が衰退してしまうという危機感を覚え、今日、これを書いている。
今、僕の生活において、「耳学問」できる場所は飲み屋だけだ。「耳学問」するつもりでなくても、一方的に周囲の会話が入ってくるという素晴らしい環境である。今、酒も減らしている。ますます「耳学問」の機会が僕からなくなっていくようで、それはそれで寂しいとも思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
当初の予定では、この日、奈良から京都へ帰る途中などで習得した耳学問の成果を披露しようとしたのだった。でも、帰宅直後の兄の転職の話によって、耳学問の成果はどうでもよくなってきたのだった。
(平成29年2月)