7月20日(木):ユーチューバー廃絶論
ユーチューバーの目に余る愚行を新たに見た。テレビのワイドショーで見た。最近、この手のニュースを見る機会が増えたように感じる。
今日、僕が見たのは、韓国の若者の動画だった。地下鉄の車内でラーメンを煮て食うというものだった。周りには普通に乗客もいる。その中で、地べたにコンロを置き、寝そべって食べる姿が動画に映されている。
その他にも、彼の動画といえば、釣り池に飛び込んで、素手で魚を捕らえたりするものとか、後ろから子供に近寄ってぺチンと頭を叩いたりとか、そんなものがあった。
見ていて、僕はゾッとした。そこにあるのは冷たいばかりの無関心、周囲や他者に対する無関心だった。公序良俗を乱す行為にはこの種の無関心が必ず存在していると僕は思う。周囲や他者に対する無関心とは、言い換えると「自閉」ということなのだ。彼の愚行ではなく、彼の「自閉」性に僕はゾッとするのだ。
この男性はいわゆるユーチューバーなんだそうだ。ユーチューバーなんて、何をやってるかよう分からん職業である。広告のスポンサー企業がいて、そこからお金が発生するそうだが、あんなユーチューバーのスポンサーになる側も低級である。創造性のある企業なら、ユーチューバーに依存しないと僕は思う。
何をしてもいい、注目を集めるなら何をしてもいいといった環境では、創造性は発揮されない。そう、あんなユーチューバーは何一つ創造的な活動をしていないのだ。ルールや制限をいくらでも破っていいということであれば、創造性なんか必要とされないのだ。
創造的な活動とは、ルールや制限の枠内で発揮されるものなのだ。音楽なんかでも、作曲家がいくら型破りな曲を作ったとしても、実際にはその作品の大部分が音楽理論に従っているのだ。その枠内で新しいことをしなければならないから創造性が必要になるのだ。
僕はユーチューブの動画なんて見ない。昔はいろいろと見たこともあったけど、何一つとしていいと思うものがなかった。どれもこれも下らんものばかりだった。投稿者が個人的な趣味でやってる分には構わない。ただ、それが職業になるのはどうかと思うのである。
それが職業になると競争が生まれる。この競争は、製品の性能で決まるのではなく、サービスの良し悪しで決まるのでもない。注目をより浴びるか否かという競争になるのだ。注目を浴びて、再生回数が増えるかどうかだけなのだ。
注目を浴びる最も安易な方法は、常識外れのことをするということである。この安易さはサルでも思いつくことである。食事をする場所ではない場所で食事をすればいいのである。服を着るのが常識の場所で裸になればいいのである。みんなが立って歩く場所で寝転がればいいのである。通常なら道具を使ってなされる行為を素手でやればいいのである。暴れてはいけない場所で暴れればいいのである。禁止されていることを敢えてやればいいのである。なんの創意工夫も要らない。そして、そんな競争になるのだ。
僕に子供がいれば、サラリーマンとユーチューバーにだけはなるなと教育するだろう。前者はまだ許せるが、後者は絶対にダメだと教えるだろう。子供がユーチューバーになったら、僕は親子の縁を切らせてもらう。ユーチューバーの親になるなんて、人間として恥だと感じてしまうからである。
いずれにしても、ユーチューバーなんて滅んでくれればいいのだ。企業も彼らに広告を依頼してはいけないのだ。彼らの動画が再生されるよりも、企業の宣伝動画が再生される方がいいに決まっている。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)