7月14日:親戚の死

7月14日(月):親戚の死

(週の始まり)
 今日からまた新しい一週間が始まる。新しい一日、新しい週を迎えることができることに、喜びを感じる。

(親戚の死)
 親戚が亡くなった。今日、お葬式があるというので、両親は朝から出て行った。僕は仕事があるからということで行かないことにした。それに親戚と言っても、僕個人はそれほど深いつながりがあるわけではない。それに、別のある理由のためにその人の葬儀に顔を出すことは気分的に受け入れきれないものがある。
 
(Sを見かける)
 出勤時にSさんを見かけた。この人は飲み仲間だった一人で、あまり付き合いたくない人だ。飲み屋で顔を合わせたら、それなりに相手もできるけれど、あまり普段から付き合いたいとか、飲みに誘い合うような間柄にはなりたくないと思っている。
 Sは、飲み屋の中ではひどく評判の悪い男だ。少し変わり者だと見られている。僕は、自慢ではないが、そういう変な人からやたらと気に入られる。Sさんもその一人だ。
 Sさんとその辺ですれ違うのは構わないけれど、ウチの職場を知られるのが嫌だ。何となくだけれど、押しかけてきそう。

(フッサール)
 今週はフッサールの『内的時間意識の現象学』を中心に勉強しようと決める。この本は一部と二部に分かれていて、一部が1904年ころの文章で、二部はそれ以後の補遺になっている。まず、一部を重点的に読んで、つまり、1904年のフッサールに追いついて、それから二部に入ろうと計画する。第1部だけだと120ページくらいだ。最初に概観する。朝の出勤までに30ページほど読み終えた。

(仕事)
 今日は面接は少なかった。今、月曜日はそれほど忙しくない。水、木、土に集中している。
 その代り、電話は多かった。朝や昼も多かったけれど、夜の最終枠の面接の間に4,5回かかってきた。その時は電話に出れなかったけれど、その人たちも後でかけてきてくれて、どうにかつながった。良かった。
 ポータルサイトというのか、地域の情報サイトというのか、そういうものにウチを掲載しませんかという電話も2件あった。無料だけれど、僕は辞退した。まあ、それでも勝手に掲載するのではないかと思うが。
 無料でも断るのは、それらは僕が管理できないからだ。一例を挙げると、定休日はこの10年間でかなり推移した。最初は日曜日が定休だった。これは当時の生活状況によるものだ。それを水曜日に変更した。この水曜日に、ある内科でカウンセリングをすることを頼まれた。ただ、その内科クリニックでは、面接できる環境が整っていなかったので、僕は断ったのだ。それに、水曜日は古本屋が休みの日でもある。定休日に古書街に行くと、軒並み閉まっているので、これはいかんなと思った。そして、火曜日に定休日をずらしたのだ。
 しばらく火曜日だけだったけれど、二年前、昔バイトしていた店長から連絡があって、また少し手伝ってくれないかという話をいただいた。その関係で火曜日と金曜日を定休日にすることにした。もう、そのバイトはしていないのだけれど、定休日だけはそのまま火・金で続けている。正確に言うと、火曜日は休むのだけれど、金曜日は事務的なことや記録の作成、テープの聞き直し、あるいはサイトの作業などのために費やすことにする。金曜日は定休日とは言え、それは面接を入れないというだけで、実質、休みではないのだ。
 何を見てくれたのか、今でもウチの定休日が日曜日だと信じている人がいた。こういうことが起きるから嫌なのだ。情報が以前のままで変更されていないのだ。僕が管理できないというのはそういう意味だ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 あの人が亡くなったのがこの年だったか。なんとなく一つの区切りがついたような感じがしたのを覚えている。ポータルサイトの類は、今でもたまにそういう話が来る。すべて断っているが、無断で掲載されている可能性もある。一度調べてみてもいいのだけど、それも面倒だ。
(平成29年1月)

 

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