6月26日(金):キネマ館~『マッド・マックス2』
先週もやったので、今週もこれをしよう。BSテレビで観た『マッド・マックス2』について思うところを綴る。
(神話)
一応、前作の延長上の物語だが、時代はもう少し進んでいて、戦争後の荒廃した世界を舞台にしている。
舞台は未来だが、物語は過去のこととして語られる。オープニングとラストにナレーションが入る。最初に世界がいかにしてこのようになったかが語られれ、ラストに我々を新天地に向かわせることに貢献した英雄としてマックスが語られ、マックス以後に部族がどうなったかを語って映画は終わる。
これはつまり、マックスの活躍が、現在進行形の物語ではなく、昔話として、一族の神話として語られているという構造である。
物語が神話の形で綴られているということは、僕には二つの理由があると思う。一つは、これをもってマックスの映画を打ち切りにしようという製作者側の意図があったのではないかということである。実在性を帯びたキャラクターから、伝説の、神話上の人物にするということで、一つの神格化をしているわけだが、それによって、このシリーズを終えようということだったのかもしれない、ということである。
もう一つは、神話として語られることによって、リアリティを薄めるという作用があると思う。どれだけ恐ろしい物語が述べられようとも、それは昔々のことじゃったということであれば、僕たちは安心して聴くことができるわけである。
荒廃した砂漠で、凶暴な暴走族集団が善良な部族に襲いかかる。時にむごたらしい場面も出てくる。それでも僕たちはそれを現在目の前に生じている出来事としてではなく、大昔の出来事として提示されることによって、ある程度安心感を持って物語に関わることができるのである。僕はそう感じている。
蛇足ながら、他の神話などがそうであるように、ここでも矛盾がある。語り手は一族の三代目の長であるが、その人物の正体が最後に分かるようになっている。では、その人物とマックスが出会う以前のマックスの物語は誰によって記録されたのだろうか。マックスが敵のウェズ(モヒカン男)に狙われることになる部分、キャプテンと出会う部分などのエピソードは誰によって語られたのだろうかということである。ここはもしかするとその長の空想であるかもしれず、現実には違ったいきさつがあったかもしれない。そう思うと、もっと違った物語を各人が思い描くことも可能なようである。
(悪役とヒューマンガス様)
物語が神話的であるのと関係するが、登場人物たちもどこか人間離れした感じを受ける。つまり、キャラクターとして造形されているということである。悪役も戦士も、コミックやゲームの世界に登場するキャラのようにデフォルメされている。
中でも、悪役のボス、砂漠の支配者であるヒューマンガス様のファッションはナイスである。ホッケーの仮面をかぶり、レザーのパンツ一丁に、上半身はレザーのベルトだけというチンチクリンなSM野郎である。分かりやすく言えば、ヘンタイである。おまけにかなりの薄毛(つまりハゲ)であるようだ。
無機質な仮面をかぶるということは、自己を持っていないことの表れだろうし、その衣装は自分が逸脱しているということの表現なのだろう。まあ、ホッケーの仮面は『13日の金曜日』のジェーソンのパロディかもしれないけれど。
悪役たちはこのヒューマンガスの部下であるが、ヒューマンガスその人が支配者として尊敬されているわけではない。悪役たちは、前作でもそうであったが、自分たちの行動規範を有していないのだ。自分の中の核となる部分を有していないのだ。行動の指針を形成するような自己がなく、目の前を横切るものに心のすべてを奪われるような人たちだ。彼らは自分たちに欠けているものの代用品としてヒューマンガス様のような人間を必要としているだけに過ぎす、そこには一切の関係性さえ築かれていないのだ。
このことを示す場面がある。見事な描写だと思うのでやや細かく述べる。それはヒューマンガス様のスクリーン初登場シーンで、石油を掘る一族と交渉しにきたのである。ヒューマンガスが演説をする。そこに一族の子供が抜け穴を通って現れ、ブーメランを投げる。空中を舞うブーメラン。悪役たち(観客も一緒になって)は、そのブーメランに心を占められる。ヒューマンガス様の演説なんてどうでもよくなっている。ブーメランの二投目がなされる。ウェズの「恋人」がそれに当たって死ぬ。荒れ狂うウェズ。ヒューマンガス様、ウェズを羽交い絞めして「落とす」。第三投目がなされる。今度は俺が取ると手を伸ばすメガネ男の指を切断する。それを見て悪役一同大笑いする。もはやヒューマンガス様のことは眼中になく、ウェズやその「恋人」のことも頭からきれいになくなっていて、集団の統率はなくなり、混沌状況が呆気ないくらい簡単に生まれる。ヒューマンガス様など、リーダーとして尊敬されていないのだ。
(新天地へ)
この映画のもう一つのテーマは、部族が苦しい現状を切り抜けて新天地に赴くという部分である。モーセの物語にあるように、こうしたテーマは神話ではよく取り上げられるものである。
新天地に行くこと、新しい世界に向かって出立するというのは、自我の成熟に伴うテーマでもある。部族の人たちは、砂漠を我が物顔で振る舞う野蛮人たちと違った存在になろうとしていて、その決定打として、新天地へ向かうことが示されている。彼らは一段階上の存在になろうとしているのだ。
神話でもそうなのだが、こういう時、部族に協力し、引導する英雄が現れる。いや、こうした働きをする存在は英雄視されるのである。マックスは、部族の側からみれば、ある日いきなり現れた異端である。自分たちの仲間とも思えず、暴走族軍団の一味でもなさそうだという異質の存在である。この辺りはその他の英雄伝説と類似している。英雄は、一度、捨てられるというのが定石であるが、マックスも然りである。トレーラーを調達するために、部族を後にし、続いて自分だけ放浪しようとする。
(キャプテンとマックス)
さて、ここにもう一人魅力的な人物が現れる。キャプテンである。彼はマックスの「相棒」である。と言うよりも、自分から「相棒」と名乗り、それをマックスに押し付けるだけなのだが、この人物、空を飛ぶのである。要するに飛行機だ。
部族からすると、この男は空からやってきた男ということになる。加えて、彼はヘビ使いでもある。天空からやってきた存在であり、ヘビを使い馴らす知恵者ということになる。だから、キャプテンはマックス以上に神話的性格を帯びているキャラクターなのだ。
英雄は一人残り、その相棒が族長になる。英雄は常に隔離される。孤高の存在でなければならないのだ。その代わり、英雄の片割れが部族に与えられることになるわけだ。これもまた神話にありがちなパターンである。
このキャプテンであるが、マックスとは対照的である。キャプテンは俗っぽさを残しているのだ。この世の快に未練があり、欲望を持っているのだ。マックスについていけばうまい汁が吸えるかもしれないという思いがあったかもしれない。部族に協力するのは、部族の娘のためだったかもしれず、打算的で、世俗的である。
マックスはそうしたものとは無縁である。彼はただマシンを走らせるだけである。それしか彼には残されていないのである。前回登場した改造マシンを今回も走らせている。そのマシンには妻や仲間の思い出が伴っているのだろう。そして、マックスはそこから抜け出すことができていないのではないかと僕は思う。そのマシンを失った時、最後の生きがいは石油トレーラーを運転することだけだったかもしれない。彼は部族のためにそれをするのではなかった。自分の何かのためだけにそれをしたかっただけである。ラストでトレーラーが横転して、この生きがいに終止符が打たれた時、マックスにはもう何も残されていなかったのだと思う。だから、彼はキャプテンと一緒に部族に加わることをせず、砂漠に一人残ることにしたのだと思う。
(伝説を語ること)
そして、物語は、過去に部族を助けた英雄について現在の長が語るという構成を取っている。人はどんな時に過去の英雄のことを語りたくなるだろうか。
その英雄を乗り越えたいと思う時に、そうした語り直しがされるかもしれない。でも、今その英雄が必要だという時に、かつての英雄を人々に語り伝えたくなるかもしれない。つまり、今現在、マックスのような英雄がいてくれたらなあっていう時に、かつてマックスのような英雄がいたのだということを思い出し、語りたくなるのかもしれない。そう思うと、新天地に避難した人々も、生涯安泰に暮らしたとは言えないのかもしれない。新たな危機に見舞われているのかもしれない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)