6月20日(土);キネマ館~「マッド・マックス」
僕はこれは非常によくできた映画だなと思っている。警官が凶悪な暴走族軍団と戦うという映画なのだけれど、それ以上のものがある。僕が感心した箇所を思いつくまま列挙しよう。
(オープニング)
冒頭の場面。待機中の警官がガンスコープ(正しい名称かどうか自信がないが)で裸の男女が戯れているところを覗いている。
何気なく見逃していたけれど、けっこう示唆に富むように思う。
まず、密かに見られているということ(狙われている)ということを暗示する。
続いて、距離が縮められている(追い詰められる)ということを暗示する。
最後に、警官も悪いことをする(善と悪が明確に分けられない)ということを暗示する。
このシーンは僕にその三点を感じさせた。
(悪役)
「マッド・マックス」シリーズに登場する悪役は、本当に悪そうに見える。普通の悪役以上に凶悪感が漂うのだ。これはなぜだろうか。
まず、彼らには明確な行動原理とか、自分たちの行動規範、準拠枠といったものがないのだ。彼らの目に飛び込んでくるもの、彼らの意識に入り込んでくるものに、彼らは飛びつき、それに延々と囚われ、執拗に追い続ける。こっちで何かがあればそれに拘泥し、向こうに何かあれば向こうに飛びつくといった行動の仕方である。自己がしっかりしていない人の行動パターンである。
そのため、彼らの行動は無秩序で予測がつかないのである。彼らは退屈していて、おもしろそうなものには衝動的に飛びつく。そのくせ悪知恵だけは働くのでとてもタチが悪いのだ。
言葉がキツイかもしれないが、彼らから受ける印象は、「不良」とか「異常」といったものではなく、「不具」というものに近い。「悪い人間」ではなく「モンスター」である。
(グース、ジェシカへの襲撃~撮り方)
この映画、撮影がとても上手だなと僕は感じる。
グースが襲われる場面を見てみよう。グースというのは、マックスの親友のバイク警官である。彼は暴走族連中の恨みを買っている。
その前夜、グースのバイクに何者かが細工しているのを観客は見る。グースはそれを知らない。
翌朝、いつものようにグースはバイクに乗り、出勤する。僕たちはそのバイクがヤバいことを知っているがグースは知らない。
バイクを走らせるグースの姿が映し出される。いつ事故を起こすかと観ている方は不安になる。すると、今度は、グースではなく、グースの視線に映像が切り替わる。僕たちはグースの立場に置かされる。そのバイクは危ないということを観客は知っているが、そのバイクに観客が乗せられてしまうのだ。ここでたまらない危機感を体験しているのは観客の方である。
案の定、バイクが横転する。観客が予期していた通りのことが起きるのだ。しかし、グースはここでは助かるのだ。そこがミソである。
車を呼び、バイクを乗せ、グースはまた走り始める。バイクに仕掛けられたトラップから逃れることはできたものの、次はどんな手で襲われるかの予測がつかないという不安感に観客は駆り立てられる。
マックスの妻であるジェシーが襲われるのも同じような構図である。ここで襲われるのじゃないかという暗示が与えられる。実際、そこで襲われるのだけれど、そこでは助かるのである。助かっても観客には安心できないのだ。次に何が起きるかということが、今度は暗示も予告もされていないので、分からないという不安に苛まれる。
他の箇所でも見られるが、観客に安心感を与えないようにできているのだ。ここで襲われるのではないかと最初の不安が生じるが、そこでは助かり、次に予測できないという不安が最初の不安に取って代わるのである。こうしたところの撮り方とか、ストーリー展開が見事だと思う。
(両極端は似てくる)
グースの悲惨な死を見て、マックスは警官を辞職しようとする。その時、辞職の理由として、マックスが「自分が彼ら(暴走族)と同じだと気づいたんです」と言う。
僕はここで「両極端なものは互いに似てくる」という命題を思い出す。善も悪も、極端になると、同じようなものになってくるのだ。冒頭の警官の覗きのシーンがここで思い出された。なるほど、あれはここに結びつくのだなと、見ていて感心した。
実際、改造バイクを乗り回す暴走族を追うマックスの車も違法なほどの改造が施されている車だったりするのだ。
(背景とBGM)
背景と言っても、情景のことではない。情景に関して言えば、大陸ってやっぱり広いんだなあと思う。あんな道路がいくつもあるのだから。
その背景ではなくて、個々人の背景のことである。マックスとジェシーがどうやって知り合ったのかとか、マックスはどうして警官になったのか、あのドライブテクニックはどうして身に付いたのか、あるいはなぜナイトライダーたちが暴走族になったのかとか、そうした個人の背景は一切描かれていないのだ。彼らの過去に関することも描写されていない。
これは観る側にしてみれば、共感要素が少なくなってしまうという不利をもたらすと同時に、観客それぞれが自由に投影できるといった利点もあると僕は思う。そして、登場人物たちに共感できなくても、彼ら目線の映像を提示されることで、かなり直接的に彼らとの同一視、一体感を経験することになる。そこで僕たちはさまざまな感情体験をするのであるが、登場人物と直接的な一体感を体験しているので、客観的な感情移入よりも、強烈な感情体験をしてしまうことになるのだと思う。
そして、BGMがすごく効果的だと思った。観客の感情体験を煽るかのような感じでBGMが聞こえてきた。騒々しすぎるほどのバイクの音も、却って彼らに対する嫌悪感を高めることに一役買っているのではないかと思う。
以上、映画「マッド・マックス」を観ての僕の個人的な感想を述べた。
他にも暴走族のリーダーだったナイトライダーに関して、追う側と追われる側について思うところもあったし、子分たちのナイトライダー崇拝についても感じたものがある。辞職するマックスに隊長が「お前みたいなのが必要なんだ。お前はヒーローなんだ」という一言に表されるヒーロー観についても述べるところがある。また、本作が昔の西部劇(特にマカロニウエスタン)と多くの点でリンクするということも述べたいところのものがあるのだけれど、今日はもう書くのに疲れてきたので、おしまい。それでは、みなさん、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(追記)
この映画はオーストラリアの映画だった。文中ではアメリカって書いたけど、僕の勘違いだ。でも、どちらも大陸であるということに違いはないのだけど。文中に少しだけ触れたように、本作は基本的にマカロニウエスタンなんだと僕は思う。馬がバイクに、馬車が自動車に代わっただけだ。基本はマカロニだと思っている。
(平成29年7月)