6月2日:目をやられて 

6月2日(日):目をやられて 

 

 昨日はあれだけこなしたのに、今日はサイトをいじくる気になれない。その理由の一つは液晶画面を見ることに耐えられない思いがしているからだ。目が非常にやられているなと感じる。活字を読むのさえ、今日は億劫だ。 

 本を読む。昨日の続きで「ビジョン・セミナー」を読む。目の前がチラチラする。できるだけ目は使わないようにしようと決める。 

 

 面接や雑用の合間を縫って、室内の整頓に手を付けた。前々から少しずつ取り組んではいるのだけれど、最近疎かになっている。今日から再開しようという気持ちに今はなっている。 

 

 今日はこれから夜勤だ。その前に少しだけパソコンを触ろうという気になった。目の具合は相変わらずだけれど、朝よりかはましになっている。 

 書きたい。いろんなことを書いて残しておきたい。書かれたものは書いた人間の存在を証明する。宮本武蔵は実在した人物だけれど、佐々木小次郎はよく分からないということを聞いたことがある。その違いは書を残したか否かの違いだけなのだそうだ。 

 僕は僕が存在していることの証明のために、僕が存在していることを知ってもらうために、ただ書く。サイトやブログを読んでくれている人もあるようだけれど、彼らのために書いているという意識はない。僕自身のために、それだけのために書いている。 

 それから今日からダンテの『神曲』を読み始めている。情報過多の現代で、速読がもてはやされる時代だけれど、この作品はじっくり読みたいと思わせる。イメージや象徴に満ち溢れており、それを読み解いて、作品を理解したいと思う。一歌ずつ読んで、読んだ部分の感想や考察を掲載していこうと決めた。 

 でも、これは作品の解説ではない。僕の個人的な感想であり、メモである。僕はこう読んで、こんな風に理解したというだけのものである。恐らく、読んでくれる人にとっては何の意味も価値も感じられないものになるだろうと思う。 

 このところユングに惹かれている。どうも、僕の場合、仕事に行き詰った時にはフロイトやフロイト派の人の書を紐解くことが多くて、人生に行き詰まりを感じている時にはユングが魅力的に映ることが多いようだ。今もそういう時期なのだろう。 

 フロイト派は実用的だけれど、ユングは生き方に変容が生じる時に読みたくなるようだ。あくまでも僕の場合はだ。でも、ユングのような人間理解ができればいいと思うし、ユングのように仕事ができればいいなと思う。僕自身はユング派ではないのだけれど、ユングは僕の憧れでもある。 

 ユング派の人の書いた本は却って分かりにくく、ユングが実際に書いたものや講義を読む方が分かり易いという感じがある。これはフロイトとは逆だ。フロイトを学ぼうとすれば、フロイト派の本がとても役に立つ。フロイトには補助教材が必要で、そうでなければフロイトは正しく読めないという感じが僕にはある。 

 ユングははるかに難解で大規模だ。元型や個性化の概念は本当に理解しづらい。ユングも苦心して説明されているように感じる。科学的な態度でそれらに接すると、間違いなく混乱するだろう。自分自身の態度や意識を超越しないと本当には理解できない事柄のように思われる。 

 今日は目をやられてあまり本が読めなかったけれど、明日もまたユングの教えに耳を傾けようと思う。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

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