6月18日:心理学的後進国

6月18日(金):心理学的後進国

 

 日本では心理学が好まれているようで、書店なんかを覗くと心理学系の書架にたくさんの本が並んでいる。そういう状況を見ると、日本は心理学においてかなり進んでいるという印象を受けてしまうかもしれないが、とんでもない話である。僕が思うに、日本は心理学においてもはるかに後進国だ。

 この一年くらいの日本の状況を取り上げよう。オリンピックは廃止すべきとか、今の政府はカスばかりだとか、政府の専門家たちは政党のイヌだとか、そういう僕の個人的な感情は抜きにして考えてみよう。

 

 例えば、「安全・安心」を繰り返し唱えるほど、それが信用できなくなるのはなぜか。安全・安心を徹底して実現します、だからオリンピックをやりましょう、この宣伝は何が間違っているか、お分かりになるだろうか。

 国会をなかなか開かず、必要性があるのに延期せず、予定通り閉会すること、首相が早々と会見を切り上げること、また議員が必要な答弁の場に出ないこと、これらがどういう反応を国民に生み出すか、言い換えればどういう影響を与える行為であるか、お分かりになるだろうか。

 営業自粛期間中に営業しているパチンコ店を実名報道したところ、そこに客が集中したのはなぜであろうか。

 三密を避けましょう、大人数での会食は控えましょう、飲食中の会話は控えましょう、ソーシャルディスタンスを保ってマスク着用の上で会話しましょう。これらの提言は何をもたらすだろうか。

 「上記のような行動を取るように、一人一人が行動変容を心がけましょう」、という文章にはどこに矛盾があるか。

 

 他にもまだまだ問題を提示することはできるのだけれど、ひとまず、これくらいにしておこう。いくつかの問題を提示したけれど、正直に言って、僕も正解は知らない。あくまでも僕の個人的な見解だけを綴ろう。

 

 「安心・安全な大会にする」というメッセージに積極的に賛同したり、共感したりするのは大会関係者だけであると思う。従って、このメッセージは関係者向けのものであり、一般国民向けのものではないのである。だから一般国民は信用できなくなるのだ。国民からすると、自分たちに向けて発せられているメッセージであるはずなのに、自分たちに向けて発せられているメッセージではないという風に感じるからである。関係者向けのメッセージでもって一般国民の理解を得ようというのだからチグハグなことをやっていることになるのだ。

 

 首相や議員が必要な説明をしないということはよく指摘されるところであるが、言葉ではなく、行動の方が説得力があるものである。外国の首相は、コロナ対策なんかでも、積極的に人々の面前に出るのである。それはテレビやラジオ、あるいはSNSなどのツールを使ってもいいのであるが、それは首相の「行動」を見せることになるのだ。正直に言えば、そこで発せられているメッセージは二の次である。ともかく人々の前に姿を現し、対策に取り組んでいるという姿を繰り返し見せることが大事なのだ。

 これをパフォーマンスとか「やってる感の演出」と解釈してはいけないのだ。そのような解釈が生まれるのは、上述のように、メッセージの受け取り手のことが等閑に付されているからだと思う。想定されている受け取り手と実際の受け取り手との解離があるためである。「感染対策をしっかりして安全、安心な大会を実現する」「感染拡大を防ぐために人流を減らしましょう」、これらのメッセージを喜んで受け取ることのできる人たちがどういう人たちであるかを考えなければならないわけだ。前者は大会関係者、後者は医療従事者に喜ばれるメッセージであるだろうけれど、それ以外の人にとっては感情的にそぐわないメッセージであるかもしれない。

 

 休業を求められているのにもかかわらず営業したパチンコ店があり、実名報道したところ、そのお店にワンサと客が集まったというのは、宣伝の負の効果とも言うべきものである。他は休業している中でそのお店は営業しているということを却って宣伝したことになるわけだ。これは一部の識者も述べているところである。

 しかし、別の見解も成立する。そこは自粛以前の生活や活動を連想させる場所になる。暗い夜道を独りで歩いている時に明かりが見えたらそこに向かいたくなるようなもので、不安が周囲に渦巻いているような状況では、不安が解消されそうな場所、不安が蔓延する以前の生活を連想させるような場所は救いになるものである。だから、そのパチンコ店に集まった客の中には普段はそんなにパチンコをしない人たちも含まれていると僕は思う。

 言い換えれば、そこは安全な場所ではないけれど、かつての安全だった時代の生活を連想させるということである。僕はそんなふうに思う。

 

 三密を避けましょうとか、行動規範を訴えるメッセージは何を伝えていることになるかということであるが、結局、馴染みのないものを課せられているという感じしかないのではないかと思う。三密もソーシャルディスタンスも、今では馴染みになっているかもしれないけれど、最初の頃はそういうことをいきなり推奨されて戸惑った人も多かったのではないかと思う。

 この伝え方の拙いと思う点は、人々の既存のものを利用しないところにあると思う。僕たちにはそれぞれ馴染みになっている行動様式やすでに身についている態度などがある。そういうものを利用した方が良かったと思っている。例えば、対面で会食している時の間隔は1.5メートルなので、もう50センチ間を取りましょうと言われるとよく伝わるわけだ。まあ、例が適切であるかどうかはさておき、相手にあるメッセージを伝える時に、相手の何が利用できるかを考慮していないように思うわけだ。そのため、「一方的」感が強調されてしまっているように思う。当然、それに反発したくなる人も現れるわけだ。

 

 さて、最後に行動変容だ。これがどんなにたいへんなことであるかを理解している人は少ないだろう。行動主義的に言えば、一度形成されている行動を消去してから、新しい行動パターンを(再)学習していくという過程をとることになると思う。行動の消去には罰を、再学習には報酬を組み合わせなければならない。一般の人がよく誤解するところであるが、罰は行動変容につながらないということである。それは行動を抑制ないしは消去する時にのみ有効なのであって、その後に新たな行動が再学習されるという前提がなければ無意味に終わるものである。

 しかし、もう一つ、劇的に行動変容が生じる場面がある。これは僕の個人的な見解である。それは、その人が破局的な状況を迎えている時である。例えば、問題が有っても人はカウンセリングとか治療とかを受けたがらないのである。その人のその行動が変容するのは、状況がもはや破局を迎えそうになる時である。つまり、もうダメだとか、もう後がないとか、そういう状況に陥ってやっと行動が変わるのである。危機的状況が行動を変えるということである。状況がかなり切迫した時になって、人は自分が無関心で通してきた情報にも目を通すようになるのであり、切迫する前には信用しなかった情報でも真摯に受け取るようになり、それに伴って以前とは違った行動や態度が現れるのだ。

 従って、行動変容を促す一つの方法は、今ここで行動変容しなかったら最悪の事態を迎えるなどと危機感を煽ることである。もちろん、こんな方法はお勧めしない。デマを流すということになるからだけれど、もう少し穏やかな方法を取りたいものだと思う。行動変容の前に心の変容があるものだ。行動に訴えかけるのではなく、心に訴えかけるようなメッセージを送る方が良いと僕は思う。

 おっと、いけない、問題を忘れていた。行動変容のお願いがどうしてメッセージとして矛盾しているのかということだった。要するに、変容後の行動が予め規定されていて、それが提示されているがために、メッセージの受け取り手としては、自分の行動が変容したという感覚にはつながらないのである。行動変容の主体は私であるのに、その行動選択の主体が政府にあるということになるので、矛盾が生じる。いっそのこと「これこれの行動パターンを身につけてください」とか「こういう行動を習慣化してください」と言われる方がスッキリするのである。

 

 さて、現代はさまざまな情報が氾濫しており、尚且つ、それらを手軽に入手できる時代だ。現在の実情が不明瞭である場合、自分に都合がいいというか有利な情報だけを選び取ってしまったり、政府が発出する情報に自分勝手に脚色を施してしまったりすることもあるだろう。何よりも現状の正確な把握と、それの正確な報道が欠かせない。現状の正確な把握を政府が怠ってきた背景があるので、コロナ問題に関してはさまざまな臆見が飛び交うのかもしれない。

 あと、宣伝にはメッセージの積極性とか消極性とかいう観念がある。例えば、ライバル社の製品は粗悪であるという形の宣伝は消極的なのである。また、わが社の製品はとても安全ですとしか言わない宣伝もやはり消極的なのである。一方、わが社の製品はここが優れているというのは積極的な宣伝となる。政府や自治体が発するメッセージは消極的なものが多いという印象を僕は受けている。

 宣言を守ってくださいというのは消極的だ。ましてや宣言を破ると罰則を設けますなんてのは輪にかけて消極的である。宣言を守っているところを優遇しますの方がまだましである。そして、この宣言を守り通した暁にはこういう未来が待っているというところまで伝えられると、より積極的になるだろう。「普段の生活に戻れます」だけでは弱いのだ。

 

 さて、長々と綴ったわりには、結局、何が言いたいのか分からない内容になってしまったな。まあ、こんな日もあると僕は自分を宥めてこのブログを終えよう。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

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