6月17日(月):唯我独断的読書評~『誤解』(カミュ)
サルトルもそうであったが、カミュもまた自身の思想を小説や戯曲として発表し続けた。『誤解』はカミュの最初に出版された戯曲であるが、それ以前に『カリギュラ』を執筆しているので、戯曲としては二作目となる。
カミュは『カリギュラ』の発表を見合わせたのだ。ナチス政権下であれを発表するのはヤバいだろうなと僕も思うのである。もっとも、それだけが理由とは限らないんだけれど、『カリギュラ』は内容的にも過激である。
それに比べると、『誤解』の方は内容がシンプルである。それだけに僕も好きな作品の一つとなっている。サルトルで言えば『出口なし』になるだろうか。シンプルで、且つ、分かりやすい。実存哲学特有の難解さがないのがいい。
本作は登場人物が少ない。主人公(といっていいのか)のジャンと妻のマリヤ。ジャンの母親と妹であるマルタ、それに老召使の5人だけである。そういうのが僕にはいい。登場人物の多い戯曲はちょっと疲れる(小説ならまだしも)感じがするんだな。
かつて、ジャンは母親と妹を置いて家を出たのである。残された母親と妹は旅館を経営しているのだが、旅館というのは表向きで、本当は山賊なのである。宿泊客を殺し、所持品を奪って生計を立てている。
当然、ジャンは彼女たちがそういうことをしていることを知らない。彼は自分が母親の息子であり、妹の兄であるということを隠し、普通の宿泊客を装う。彼女たちが彼に気づくかどうか知りたいのである。
妻のマリヤは正直に身分を打ち明けた方がいいと説得するも、ジャンは断る。マリヤも一緒に泊まろうという提案もジャンは退ける。こうして自分の身分を隠して母親と妹たちの宿泊客となる。
一応、こういう設定がある。ここまでが第一幕である。
以降のあらすじを綴っておくと、母親は気が進まないながらもジャンを殺してしまう。母親は彼が自分の息子であることを知って、後を追って死ぬ。
第3幕で、ジャンに会うためにマリヤが旅館を訪れる。マリヤとマルタの論争が展開される。この部分がいささか哲学的内容を含んでいる。
本作に関して、カミュ自身の言葉が残されている。
「人間たちのあらゆる不幸は、簡単なことばを言わないところにあるのです。もし『誤解』の主人公が『僕ですよ、僕はあなたの息子ですよ』と言ったら、対話は可能だったでしょう」と。
カミュのこの文章はそれだけで本作のテーマが言い尽くされている。人は簡単なことを言わないがために不幸が生じるというのは、僕もそれを実感することが多々ある。クライアントがそこで簡単なひと言を言っていたらその問題は発生しなかっただろうに、などと思うことがけっこうある。そして、悲劇も回避できたら、対話の可能性が生まれるだろうと思う。
また、カミュは別の箇所で「サルトルの行き着いたところから私の思想が始まる」という主旨のことを述べているのだけれど、なるほど、そういうことかと納得する。
サルトルは人は何者かになっていくことを説いたわけであるが、カミュはさらに進めて、自分が何者であるかを積極的に打ち明けなければならないと考えているようだ。自分が何者であるかを世間に自ら打ち明けることで、個人は世界に位置づけられるというか、世界に居場所を持つようになると僕も思うのである。そして、そこから人との連帯も生まれ、対話の可能性が広がるものではないかと思うのである。
そんなふうに考えていくと、妹のマルタは真の実存に失敗した人間という感じがしてくる。彼女はすべてを恨むようになっている。
第3幕のマルタとマリヤの対決場面で、マルタは一度マリヤに背を向けて歩き出すが、再びマリヤのところへ戻って来る。つまり、どうしてもマリヤにこれだけは言わなければならないということなのだろう。
マルタ「でも、涙が流せるんだからまだたいして大きくはないわ。で、あなたと永久にお別れする前に、まだ私にはすることが残っているようね。あなたを絶望させることよ」
マリヤ「(恐ろしげに彼女をみつめ)ああ、放っておいてちょうだい! 出ていって
ちょうだい! 放っておいて!」
マルタ「行きますとも、そのほうが私も助かるわ。あなたの愛だの涙だのはとても我慢ができません。でも、あなたが、自分が正しいとか、愛は空しいものではないとか、これは単なる災難だなんて考えているなら私は死ねない。なぜって、今こそ私たちは本来の状態に帰ったんですから。それをあなたに教えておかなければ」
マリヤ「本来の状態って何です?」
マルタ「誰もが自分を認めてもらえない状態よ」
マルタもまた悲劇の人物である。彼女は何者にもなれず、自分が何者であるかを打ち明けることもなく、それゆえ認められることがなく、孤独であり、不幸を一身に集めているようだ。彼女にとって、それが自分の本来の在り方であると体験されていることになるが、僕にはそれが失敗した実存のように見えてしまう。
ジャンも妻も、母親も妹も、それぞれの悲劇で幕を閉じる。ただ、物言わぬ召使だけは、彼らの悲劇を横目にしながら、通り過ぎていく。傍観者のような存在だ。
この召使は、象徴的には「神」ということになろうか。そう捉えるとかなり無神論的思想が色濃くなってくる。
僕はこの召使もまた一つの存在様式を体現しているように思えてくる。世界で起きる事柄に一切アンガジュマンせず、ハイデッガーのいう「das mann」のような存在様式ではないかと思えてくる。多くの人たち(群衆)の在り方ではないだろうか。
ラストでこの召使が舞台に登場する。マリヤは、神に祈り、召使に助けを求めるのであるが、彼はそれを拒否して、あくまでも非参画の姿勢を貫く。人間の悲劇に目を背け続ける「神」が描かれているようである。
以上、僕は本作をこのように読んだ。カミュの研究家からすれば、僕はカミュの思想を十分に拾っていないと批判されそうだけれど、それは専門家に任せて、僕は僕の感想を綴るまでだ。
僕の中では、カミュの作品で一番好きだ。『異邦人』や『ペスト』もいいんだけれど、本作は筋がシンプルで分かりやすいのが特にいい。僕の唯我独断的読書評価は断然5つ星だ。
<テキスト>
『カリギュラ・誤解・ドイツ人の友への手紙』(カミュ全集3)新潮社所収
「誤解」(鬼頭哲人 訳)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)